入れかわった男

入れかわった男
Author: E. Phillips Oppenheim
Pages: 207,789 Pages
Audio Length: 2 hr 53 min
Languages: ja

Summary

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 「あなたに命を狙われるほどの価値はない人間だから」

 「おかしなことを言うわね」彼女は記憶を探った。 「聖書のどこかになかったかしら。 『命には命を』とか。 あなたはロジャー・アンサンクを殺したわ」

 「あれ以来、自分を守るために何人も人を殺したよ。 殺すか殺されるか。 ときどき男はそんな状況に追いこまれる。 あれはロジャー・アンサンクが――」

 「あの人のことはもう話したくありません」彼女はごく静かに断言した。 「一昨日の晩、彼の霊が窓の下からわたしに語りかけたの。 地獄に来い、そして一緒に暮らそうと。 考えただけでもぞっとする」

 「さあさあ、別の話をしよう。 どんな贈り物を買ってあげたらいいのか、教えてほしいな。 お金持ちになってアフリカから帰ってきたんだから」

 「贈り物?」

 彼女の顔はほんの一瞬、おもちゃを与えられた子どものように輝いた。 期待を秘めた笑顔は愛くるしく、あの妙にうつろな表情が目から消えた。 しかし彼が次の言葉を発する間もなく、すべてが元に戻ってしまった。

 「聞いて。 大事なことなの。 あなたを呼んだのは、どうしてか分からないけど、昨日の晩、急にあなたを殺したいと思わなくなったからなの。 あんなにかたく決心していたのに。 今はその気持ちがすっかり消えてしまった。 もう自分が何を考えているのか分からない。 椅子をもっと引き寄せなさいな。 いえ、わたしの隣に来たらいいわ。 ほら、長椅子のこっち側へ」

 彼女はスカートを寄せて、場所を空けた。 座ると彼は手足におかしな震えが走るのを感じた。

 「たぶん誓いを守ることはないわ。 もう破ってしまったんですもの。 あなた、お顔を見せて。 変な気持ちだわ。 あんなに長い月日が経ったのにまだ――夫がいるなんて」

 ドミニーは毒々しいまでに甘く澱んだ空気を吸いこんでいるような気がした。 何もかもが現実離れした感触を持っていた――部屋も、この子どものような女も、彼女の美しさも、ゆっくりとつかえながら話すさまも、彼女が語る異様なことどもも。

 「わたしは変わったかな?」

 「びっくりするくらい変わったわ。 前より力があふれているし、ハンサムになったかもしれない。 でも、お顔から何かがなくなっている。 なくならないと思っていたものが」

 「君はずっときれいになったよ、ロザモンド」彼は用心深く言った。

 彼女は寂しそうに笑った。

 「きれいになっても何の意味もなかったわ、エヴェラード、あなたがわたしの粗末な家に来て、わたしを愛し、わたしにあたなを愛させ、陰気なロジャーからわたしを奪ってからは。 学校の生徒たちがあの人のことを陰気なロジャーって綽名していたことを覚えている?でもそんなことはどうでもいい。 エヴェラード、あなたがわたしを置き去りにしてから、わたし、お庭の外に出たことがないのよ。 知ってる?」

 「これからは違うよ、君が望むなら」ドミニーは急いで言った。 「行きたいところに行けるようになるんだ。 車を買って、町に別邸だって建ててあげる。 うんと有能な医者を連れてきて、君をもう一度丈夫にしてもらう」

 彼女は大きな目をあげて、哀れみを乞うように彼を見つめた。

 「でもどうしてここを離れられるというの?」彼女は悲しそうに尋ねた。 「毎週一回、ときによるとそれ以上、彼がわたしに呼びかけてくるというのに。 わたしが行ってしまったら、彼の霊がここを飛び出して、わたしを追いかけてくる。 わたしはここにいて、手を振ってやらなければならないの。 そうしたら彼は向こうへ行ってしまうから」

 ドミニーはまたもや例の奇妙な、予想もしていなかった感情がこみあげてくるのを意識した。 もう自分の気持ちすら分からなくなっていた。 今まで胸がこんなふうにときめいたことはなかった。 眼までかっと熱くなった。 彼は新奇なものを探して世界中を旅したが、結局この異様な、色あせた部屋のなかで、心を病む女と並んで座っているときにそれを見いだしたに過ぎなかった。 それでも彼は静かにこう言った。

 「もっと親切な人がいる、楽しいところへ君を送らなければならないな。 きっと音楽や美しい絵を見るのは好きだろうね。 君が考えこまないように気をつけないといけないな」

 彼女は途方に暮れたようにため息をついた。

 「あなたを殺したいなんていう気持ちが、血のなかから消えてしまえばいい。 そうしたらすぐにでもあなたに受け入れてもらえるのに。 他の夫婦は憎み合いながらも一緒に暮らしている。 どうしてわたしたちもそうできないの?わたしたち、もしかしたら憎むことすら忘れてしまうかもしれない」

 ドミニーはふらつく足で立ちあがり、窓のほうへ歩み寄って、それを開け放ち、しばらく外に身を乗り出していた。 新たにつけ加わったこの要素は彼にショックを与えた。 そのあいだ、彼女は平然と彼を見ていた。

 「どうなの?」彼女は得体のしれない薄笑いを浮かべた。 「おっしゃって。 昨日の晩、あなたを震えあがらせた手を、妻の手として握ってくださる?」

 彼女は柔らかな温かい手を差し出した。 彼が指に力をこめると、彼女の指も力がこもった。 彼女は楽しそうに彼を見、彼は再び見知らぬ国にさまよいこんで、方角が分からくなった男のように感じた。

 「君にはうんと幸せになってほしい」彼の声はかすれていた。 「でもまだ身体が丈夫になってないね、ロザモンド。 焦って決めることはないさ」

 「わたしがあなたに優しくしようとするから驚いているのね。 でもそうしちゃいけない理由がある?急に心変わりしたわけは分からないでしょうけど――でも変わったのよ。 この短い時間のあいだに、本当のことが見えたの。 あなたを殺しちゃいけない理由があるの、エヴェラード」

 「どんな理由だい?」

 彼女は秘密を隠している子どものように、嬉しそうに頭を振った。

 「あなたは頭がいいから、自分で考えてご覧なさい。 どきどきしてきたわ。 しばらく座をはずしてくれないかしら。 ミセス・アンサンクを呼んでちょうだい」

 解放されることになって、彼は不思議な安堵を感じた。 しかし、さらに不思議なことに、そこには残念に思う気持ちも含まれていた。 彼は彼女の手を放さずにいた。

 「今晩も寝ながら歩き回るつもりなら、短剣は置いてきてほしいな」

 「言ったじゃない」彼女は驚いたように言った。 「わたしは気が変わったの。 あなたは殺さない。 寝ながら歩き回ったとしても――ときどき夜がとても長いことがあるわ――わたしが求めるのはあなたの死ではないのよ」

第十一章

 ドミニーは夢のなかをさまようように部屋を出た。 階段を降りて自室に戻ると、帽子と杖をつかみ、見る間に庭を覆いつくさんとする海霧のなかへ踏み出した。 氷のように冷たい蒸気の雲には、北極の寒気がありったけ詰めこまれている。 しかしそれにもかかわらず彼の額は熱く、脈は燃えるようだった。 壁に囲まれた庭の裏門を抜けると、広々とした沼地があった。 あちらこちらに水路が走り、潮が満ちると海水が舐めるように舌を伸ばしてくる。 彼はおぼつかない足取りで海のほうへ進み、舗装していない石だらけの道に出た。 そこでしばらくためらい、周りを見回していたが、直角の方向に向きを変えた。 やがて小さな村に着いた。 乾燥した赤煉瓦造りの古い家々、こぎれいな狭い庭、背の高い楡の木に囲まれた教会、そして道が交差するところには三角形の芝地があった。 一方の側には、低い、わらぶき屋根の建物が見えた。 ドミニー・アームズという居酒屋である。 反対側には古ぼけた四角い石の家があり、真鍮の表札がかかっていた。 近づいて名前を読み、ベルを鳴らすと、応対に出たやせた女中に医者との面会を求めた。 しばらくすると若々しい見かけの中年男が診療所にあらわれ、一礼した。 ドミニーは一瞬あっけにとられた。

 「ハリソン先生にお目にかかりたいのですが」

 「先生は数年前に引退なさいました」丁寧な答えが返ってきた。 「わたしは先生の甥です。 スティルウェルと申します」

 「先生はまだこの近所にお住まいだろうと思っていたのですが。 わたしはドミニーです。 サー・エヴェラード・ドミニー」

 「そうじゃないかと思っていました。 伯父はわたしとここに住んでいます。 実を言いますと、伯父はあなたを待っていたのですよ。 伯父は一人の患者さんだけを引き続き診ているんです」スティルウェル医師は重々しくつけ加えた。 「誰のことかはお分かりでしょう」

 訪問者は礼をした。 「妻のことですね」

 若い医師はドアを開け、客に先に入るように身振りで勧めた。

 「この家の裏に伯父の小部屋があります。 ご案内しましょう」

 彼らは気持ちのいい、白い石の廊下を通って、小さな部屋のなかに入っていった。 フランス窓からは石畳のテラスとテニス用の芝生コートが望めた。 肩幅が広く、日焼けしていくぶん深刻な表情を浮かべた白髪の老人が窓のほうから後ろを振り返った。 彼はそれまで窓に向って毛鉤の箱を調べていたのだった。

 「叔父さん、古いお友達をお連れしました」

 医師は、待ちわびていたという目でドミニーを見やり、挨拶するように前に進み出たが、ぴたりと立ち止まると、疑わしそうに頭を振った。

 「確かに古い友人とよく似ているが、どうやらあなたは別人のようだ。 お目にかかったことはまだないと思うが」

 束の間、やや緊張した沈黙が流れた。 ドミニーはぎこちなく前へ進み出ると手を差し出した。

 「どうしたんです、先生。 そんなに変わっているはずありませんよ。 確かに試練の月日が続きましたが――」

 「まさか今話している相手がエヴェラード・ドミニーだというんじゃないだろうね」医師が口を挟んだ。

 「まぎれもなくわたしです!」

 医師は冷ややかに握手を交わした。 長年かかりつけの医者を勤めてきたにしては、名門一族のあるじに対して気持ちのこもっていない歓迎の仕方だった。

 「名乗ってくれなければ、君だとは分からなかった」

 「しかし、ここにいるのは間違いなくわたしです。 相変わらず趣味に打ちこんでいるようですね、先生」

 「毛鉤釣りをはじめたのは、狩りを止めてからだよ」

 またもや気まずい沈黙が流れた。 若いほうの男がその隙間を埋めようとした。

 「釣りと猟とゴルフ。 暇つぶしがなかったら、わたしたちみたいな哀れな田舎医者はいったいどうしたらいいのでしょう」

 「それならあとでお誘いをさしあげましょう。 狩りといえばドミニー家の人間が今でも得意とするところですから」

 「楽しみに待っていますよ」即座に返事が返ってきた。

 再び毛鉤の箱の上にかがみこんでいた伯父は不意に振り返った。

 「アーサー、回診に行きなさい。 サー・エヴェラードはわたしと二人きりで話をしたいだろうから」

 「たしかにお話があるのですが、しかし専門家としての意見をお聞きしたいのです。 別に――」

 「とっくに出かける時間なんです。 それじゃわたしは失礼します。 ところでサー・エヴェラード」彼は声をひそめて、相手を軽くドアのほうに引っぱっていった。 「伯父が少々無愛想だとしても大目に見てやってください。 伯父はドミニー夫人に献身的に尽くしています。 ときどき心配しすぎじゃないかと思うのですが」

 ドミニーは頷いて、部屋に戻り、医師を見た。 流行遅れのズボンを穿いた医者はポケットに両手を突っこみ、つくづくと彼のほうを見ていた。

 「とても信じられんな、あんたが本当にエヴェラード・ドミニーだなんて」彼の話し方はいささかぞんざいだった。

 「でも、残念ですが、本物と認めざるを得ないでしょう」

 老人は品定めするように彼を見ていた。 「今の君とわたしが記憶している数年前の君は全然一致しない。 酒に溺れて見る影もないと聞いていたが」

 「世間は嘘つきだらけです。 少なくともそのうちの一人とお会いになったようですね」ドミニーは穏やかに答えた。

 「不摂生の跡さえない」

 「わたしの一族は頑健にできているんです。 ワインを二本、平気で空けるような人間が代々名を連ねていますから」訪問者は無頓着に言った。

 「イギリスを逃げ出してから肝も据わったらしいな。 昨日の晩は屋敷に泊まったのかね?」

 「他にどこで寝たらいいんです?ついでに言うと、自分の寝室で寝たんですが、その報いを受けましたよ」ドミニーは顎をあげて喉元の傷を見せた。 「別にどうということはないんですが」

 「当然だよ。 わたしに相談もせずに屋敷へ行くなんて、そんな権利は君にない。 あんなことが起きたあとだ、奥様に会う権利だってあるものか」

 「わたしの家庭問題に厳しい意見をお持ちのようだ」

 「君の過去を知っているからだよ」彼はそっけなく答えた。

 ドミニーは勧められもしないのに、安楽椅子に腰掛けた。

 「先生はいつもわたしに厳しかった。 ですが、今は純粋に専門家としてお話していただけませんか」

 「わたしが厳しかったのは、君がいつも自分勝手なけだものだったからだ。 この世でいちばん優しい女性と結婚しておきながら、悪い癖を直そうともしなかった。 そして別の男の血に手を染め、ふらふらと家に帰り、彼女を怖がらせ、正気を失わせた。 それから自分の罪を償おうともせず、十年以上も家を離れていた」

 「それはちょっと一方的すぎる見方じゃないでしょうか。 もう一度お願いします。 余計な話はさておいて、専門家としての見解をお聞かせ願えませんか」

 「ここはわたしの家だ。 それに君のほうがわたしに会いに来たんだ。 わたしは好きなことを言うよ。 それが嫌なら出ていくがいい。 ドミニー夫人のためでなければ、ここの敷居をまたぐことだって許さなかっただろう」

 ドミニーは口調を和らげた。 「それでは妻のために、わたしに対するその徹底した非難の気持ちを忘れてもらえませんか。 わたしがここに来た目的はただ一つ。 妻の健康を回復するために、あなたと一緒にできることがないか、教えてもらうためなのです」

 「君とわたしが協力するなんてとんでもない」

 「お手伝いいただけないのですか?」

 「わたしが手伝っても何の役にも立たん。 奥様の身体はあらゆる手段を尽くして治療した。 今はすっかり健康を回復している。 あとは君次第だ。 君一人にかかっている。 あまり期待はしていないがね」

 「わたしにかかっている?」ドミニーは驚いて相手の言葉をくり返した。

 「貞節はあらゆる善良な女の第二の天性だ。 ドミニー夫人も善良な女であり、その例に漏れない。 彼女の頭が枯渇しているのは、心が愛を必死に求めているからだよ。 もしも彼女に君の後悔と改心を信じさせることができたら、もしも過去の償いが可能で、十分にそれがなされたなら、その場合はどうなるか分からない。 君は金持ちになったそうじゃないか。 昔のだらしない、勝手な君から考えると奇跡みたいな話だ。 有名な医者を呼んでくることもできるだろう。 治すことはできないかもしれないが、彼らに数百ギニーを払えば、君の良心は安らぐかも知れん」

 「その人たちに会ってくれますか。 誰を呼んだらいいのか教えてください」ドミニーは嘆願した。

 「馬鹿なことを!わたしは現役を退いたんだ」にべもない返事だった。 「わたしは誰にも会わないよ。 もう医者じゃないんだ。 一村人になったんだ。 ドミニー夫人には古い友人として会いにいくんだ」

 「どうしたらいいのか教えてください。 専門家を呼んでもだめなのですか?」

 「今のところ何の意味もないな」

 「あのいとわしいミセス・アンサンクのことはどうです?」

 「本気でやるつもりなら、あの女の処分は君の仕事の一部だ。 彼女は奥様から太陽を隠すように立ちはだかっている」

 「じゃあ、どうして今まで彼女を放っておいたんです?」

 「一つには、他に代わる人がいなかった。 それにドミニー夫人は、君こそ彼女の息子の殺人犯だと信じこみ、一種の罪の償いとして彼女を保護してやるべきだと、とんでもない考えに取り憑かれたからだよ」

 「二人のあいだに情愛はかよってないとお考えですか?」

 「これっぽっちもありはせん。 ただドミニー夫人が優しくておとなしすぎるものだから――」

 医者はふと言葉を切った。 訪問者の指が首を撫でていたからだ。

 「それは別だ」医師は荒々しく言った。 「まさしくそこに彼女の心の病が残っているんだ。 わたしの見るところ、ミセス・アンサンクはそこにつけこんでいる。 そう言えば、ドミニー家に臆病者はいなかったな。 君が勇敢さを取り戻したのなら、ミセス・アンサンクを追い出し、ドアを開け放って寝たまえ。 一晩でもいい、ドミニー夫人がナイフを持って君の部屋に入ることなく過ごすことができれば、彼女は、いつかは、あの狂気から解放されるだろう。 できるかね?」

 ドミニーが躊躇していることは手に取るように分かった――そして動揺していることも。 医師はあざ笑った。

 「やっぱり怖いか!」

 「先生がご想像なさっているのとは別の意味でね。 妻はもうわたしの命を狙ったりしないと約束してくれたのです」

 「じゃあ、君さえその気になれば、彼女を治してやることができる。 それができれば、君は、人もうらやむ素晴らしい人生の伴侶を得ることになる。 しかし君が楽しみにしていたこと、たとえば、町に別邸を建てたり、競馬やヨットに打ち興じたり、スコットランドでライチョウ狩りをしたり、そういうことは全部、あきらめろ。 少なくともしばらくのあいだは、すべての時間を奥様に捧げなければならない」

 ドミニーは椅子のなかでそわそわした。

 「これから数ヶ月は無理です」

 「無理だと!」

 医師は鸚鵡返しに言った。 まるで感嘆と軽蔑をこめて、その言葉を口のなかで転がしたかのようだった。

 「わたしはもう以前のような怠け者ではないのです」ドミニーは顔をしかめて言い訳した。 「今は、お金儲けには、いろいろな責任が伴ってくるんですよ。 これから数ヶ月のうちに、ドミニー家の地所を担保にして借りていた金をみんな返す予定なのです」

 「君が時間をどう使おうと、わたしの知ったことではない。 わたしが言いたいのは、ただ、奥さんが治るとすれば、それは君のやる気にかかっているということだ。 さあ、こっちへ来てごらん。 窓の明かりの差すところへ。 君の顔を見せてくれ」

 ドミニーは軽く肩をすくめて求めに応じた。 太陽は出ていなかったが、白い北極光が揺れ動いていた。 それは赤茶けた髪にちらほら白髪が混じっていることや、きれいに刈りこまれた口ひげにも同じものがほんのわずか混じっていることを示した。 しかし落ち着き払った目にも、引き締まった男らしい日焼けした顔にも、どことなく傲慢な唇にも、衰えは全く見られなかった。 医師は鉤針の箱を再び取りあげ、ドアのほうを顎でしゃくった。

 「君は奇跡だ。 しかしわたしは奇跡が嫌いだ。 一両日中にドミニー夫人を訪ねるよ」

第十二章

 ドミニーは不思議なほど穏やかな午後を過ごした。 彼と接触した人々にとってもこの上なく満ち足りた午後だった。 愛想よくお世辞を並べるミスタ・マンガン。 地主は満足し、借地人は大喜びというめったに見られぬ光景に、思わず心を弾ませる代理人のミスタ・ジョンソン。 この二人を左右に従え、彼はドミニー家の地所をほぼぐるりと一回りしてきたのだった。 帰宅した時間は遅かった。 しかしドミニーは別世界の住人のように見えて、客に対するもてなしをおろそかにしなかった。 ミスタ・ジョンソンと管理人のリースはワインのマグナム瓶が開けられるのを生まれて初めて見たようだった。 ミスタ・ジョンソンは咳払いをして、グラスを掲げた。

 「サー・エヴェラード、借地人を代表してあなたの健康に乾杯を唱えたいと思います。 借地人のなかには苦労の絶えなかった者もいます。 しかし白人らしく耐えてきました。 彼らとわたしの気持ちをこめて乾杯させてください。 これからもお元気な姿を見せてくださいますように」

 ミスタ・リースもそれに和し、グラスはたちどころに乾され、また満たされた。

 「ご承知でしょうが、サー・エヴェラード、今日お約束なさったことには一万から一万五千ポンドの費用がかかりますよ」と代理人が言った。

 ドミニーは頷いた。

 「今晩寝る前に、ウェルズにある君の銀行の不動産口座に二万ポンドの小切手を送る。 そのための金はもう用意してあるのだ。 そうだ、君に持って行ってもらおうか」

 代理人と管理人は半時間後、大きな葉巻をくわえ、心地よいさざ波のような暖かさが血管を駆けめぐるのを感じながら、車の後部座席に寄りかかっていた。 二人ともおとぎの国へでもさまよいこんだような気分だった。 全く信じられないようなことが起きた、と彼らは思った。

 「奇跡だね」ミスタ・リースは言った。

 「現代の夢物語だよ」小説好きのミスタ・ジョンソンはつぶやいた。 「おや、屋敷に客が来たようだね」一台の車が彼らの横を走り抜けたとき、彼はそうつけ加えた。

 「しかも裕福そうな紳士だ」とミスタ・リースが言った。

 「裕福そうな紳士」とはオットー・シーマンだった。 彼は小さな旅行かばんを手にして大いに恐縮しながら屋敷にあらわれた。

 「ノリッジに行っていたんだよ、サー・エヴェラード。 そこでずっと商売をやっているんだが、お客さんの一人に対応する必要ができてね。 早く片づいたし、ここが三十マイルしか離れていないことが分かると、居ても立ってもいられなくなった。 泊まっちゃ都合が悪いというなら、遠慮無く――」

 「とんでもない。 部屋はいくらでも空いている。 火を起こして、昔ながらのあんかを入れればいいだけさ。 ミスタ・マンガンは覚えているかい?」

 二人は握手し、シーマンは遠出で渇いた喉を潤すために飲み物を受け取った。 晩餐前のベルが鳴っても、彼はしばらくその場に残っていた。

 「彼はいつ帰る予定だ?」

 「明日の朝、九時」

 「じゃあ、それまで黙っていよう。 あまり君につきまとっているように見られてもいけない――本当は来たくなかったのだが――緊急の用件があってね」

 「マンガンには早めに寝てもらうか」

 「わたし自身、早起き鳥なんだよ。 昨日は徹夜したし。 話は明日でいい」彼は疲れたように答えた。

 その日の晩餐は楽しくなごやかなものになった。 ミスタ・マンガンはとりわけ上機嫌だった。 過去十五年間、ドミニー家に関係した話はことごとく貧窮の匂いを放っていた。 実際、帳尻を合わせるために彼は一方ならぬ苦労をしいられたのである。 怒鳴りこんできた借地人との不愉快な話し合い、不満を抱く抵当債権者との公式会見、そんな嫌な仕事をこなしても、歳の終わりに得る利益は目を剥くほど少なかった。 新しい事態は至福境といってもいいくらいだ。 そこに仕上げの一筆を加えたのが、パーキンスだった。 彼はデカンターを二つテーブルに置きながらこんなふうに祝賀の言葉をささやいた。

 「旦那様、五十一年もののコックバーンの大箱がありました」彼は弁護士にも聞こえるようにそっと耳打ちした。 「味見なさりたいのではないかと思い、二本ほどお持ちしました。 ミスタ・マンガンはなかなかの通でいらっしゃるようですし。 コルクは申し分のない状態のようです」

 「これからはペルメル街の堅苦しい高級クラブには行けなくなるな」ミスタ・マンガンはため息をついた。

 シーマンはその晩、まだ宵のうちだというのに、ひどく眠いといって部屋に引き取り、屋敷の主人とマンガンが二人きりでポートワインを飲むことになった。 ドミニーは主人役としてよく気のつくほうだったが、そのときはどことなくぼんやりした様子だった。 観察力の鋭くないミスタ・マンガンでさえ、主人からある種の厳しさ、ほとんど傲慢といってもいい話し方や態度が、一時的に消えてしまったことに気づいた。

 彼は一杯目のワインを飲みながら言った。 「サー・エヴェラード、由緒ある一族が、いわば再興を遂げることになり、わたしがどれだけ嬉しく思っているか、とても言葉にできません。 しかしこう言っては何ですが、最後の締めくくりに一つだけやることが残っていますな」

 「何だい、それは?」ドミニーはぼんやりした声で尋ねた。

 「ドミニー夫人の健康を回復することです。 覚えておいででしょうか。 わたしはあなたが結婚なさったとき、奥様とお近づきになる特権を得た、数少ない人間の一人なんですよ」

 「今朝、結婚以来、ずっと彼女を診ている医者に会ってきたよ。 彼もわたしと同意見で、妻が完全に治る見こみがないわけじゃないと話していた」

 「では、勝手ながら、その希望に乾杯させてください、サー・エヴェラード」

 二つのグラスはきれいに乾されてテーブルに置かれた。 ただドミニーのグラスは脚が二つに折れてしまった。 ミスタ・マンガンは気遣いを示して残念そうに言った。

 「こういう古いグラスは非常にもろくなりますな」彼は感心しながら自分のグラスを見つめていた。

 ドミニーは返事をしなかった。 脳裏に奇妙な幻が浮かんでいたのだ。 彼は部屋の陰からステファニー・アイダーシュトルムが両腕を伸し、昔の誓いを果たすように呼びかけているのが見えたような気がした。 そしてその後ろには――

 「君は人を愛したことがあるかい、マンガン」

 「わたしですか?さあ、どうでしょう」世間を知り尽くした男も突然の質問にいささか驚いた。 「愛なんて今どき流行らないんじゃないでしょうかね」

 ドミニーは思いに沈んだ。

 「そうだろうね」と彼は言った。

 その夜、荒涼とした灰色の海のかなたから嵐が吹き出した。 その到来を告げる風がごうごうと沼地を渡り、ドミニー邸の格子窓を揺るがし、煙突のあいだや、いくつもある屋敷の角で悲鳴をあげ、泣き叫んだ。 黒雲が陸地に垂れこめ、土砂降りの雨ががたつく窓枠と窓ガラスを叩いた。 ドミニーは寝室の大きな蝋燭に火を灯し、部屋着をしっかりまとうと、安楽椅子に腰をおろし、横にある読書灯の向きを調節して、本を読もうとした。 ほどなく本が彼の指から滑り落ちた。 彼は急に緊張し、油断なく注意を払った。 ベッドの左側の羽目板を一つ一つ目で数えた。 聞き覚えのあるカチリという音が二回くり返された。 とたんに暗い空間があらわれた。 それから女が身体を低くかがめながら部屋のなかに入ってきた。 蛾が蝋燭の半円形の光に惹かれるように、彼女はゆっくりと彼のほうに向かってきた。 髪は少女のように後ろに垂らしている。 彼女をふわりと包む白い半透明の部屋着は、ふとボンド・ストリートの一流商店街を思い起こさせた。

 「怖くはないでしょう?」彼女は案じるように尋ねた。 「ほら、手には何も持ってないのよ。 もうあんな気持ちには二度とならないと思うわ。 昨日の晩、わたしが持っていた短剣を覚えている?今日、井戸に捨てちゃったの。 ミセス・アンサンクがとても怒っていたわ」

 「怖くはないさ。 ただ――」

 「まあ、わたしを叱るつもりじゃないでしょうね。 わたし、嵐が怖いの」

 彼は背の低い椅子を一つ、小さな光の輪のなかに持ってきてクッションを置いた。 彼女はそこに沈みこみながら、不意に彼のほうを見上げて微笑んだ。 得も言われぬ愛らしい、こぼれるような笑みだった。 ドミニーは一瞬、心臓をナイフでひと突きされたような気がした。

 「ここで休んだらいい。 何も怖がることはない」

 「わたし、ちゃんとわかっている。 この嵐はわたしたちの生活の一部なのね。 私たちが生まれるとともにやってきて、わたしたちが死につかまるときは世界を揺さぶるんだわ。 怖がってはいけない。 でも、わたしはずっと悪い病気にかかっていたのよ、エヴェラード。 今もエヴェラードって呼んでいいかしら?」

 「もちろんだよ。 どうしてそんなことを聞くんだい?」

 「だってあなたは、ちっともエヴェラードらしくないんですもの。 何かがなくなって、何かがつけ加わったわ。 同じあなたじゃない。 何なのかしら?アフリカで辛い目にあったの?向こうで人生がどういうものか、学んだのかしら?」

 彼は椅子に凭れて、しばらく彼女を見ていた。 椅子はわずかに暗闇のなかへ押しやられていた。 彼女の髪は鮮やかな光沢を放ち、そのせいで彼女の肌は今までになく白く、きめ細かく見えた。 目は輝いていたが、訴えるような、子供が傷つけられることを恐れるような表情があった。 長いあいだ邪な情熱に振り回されていたとはとても思えないほど彼女はひどく幼く、ひどく華奢だった。

 「向こうでいろいろなことを学んだんだ、ロザモンド」彼は静かに言った。 「正しい行いと悪い行いの区別も少しは学んだ。 人生の情熱は、ただ一つをのぞいて、いつかは燃えつきるということも」

 彼女は部屋着の飾り帯をひとしきり指で弄んでいた。 彼が今語ったことは、彼女の理解と興味の外にあるかのようだった。

 「わたしのことはもう恐れることはないのよ、エヴェラード」そういう彼女はどこか哀れだった。

 「ちっとも恐れてなんかいないさ」

 「じゃあ、どうして椅子をもっと引き寄せて、わたしの近くに来ないの?」彼女は目をあげて尋ねた。 「風の音が聞こえる?わたしたちに向かって猛り狂っている。 怖いわ!」

 彼は彼女の横に移動し、その手を優しく取った。 指に力を入れると、彼女の指もすぐに反応した。 彼が語りかけたとき、その声はほとんど自分のものとは思えなかった。 かすれた、押し殺されたような声だった。

 「あんな風に君を傷つけさせたりはしない。 いや、他の何ものにも手を出させはしない。 君を護るためにわたしは帰ってきたのだから」

 彼女はため息をつき、疲れた子供のように微笑んだ。 頭をクッションのなかにさらに沈めると、同時に彼女は目を閉じた。

 「そのままでいてちょうだい。 何かとっても新しいことがわたしに起ころうとしている。 安らかだわ。 今までこんなに甘い、安らかな気持は感じたことがない。 どこにも行かないで、エヴェラード。 手を放さないでね、このまま」

 蝋燭は蝋燭立てのなかで燃えつき、風はいっそう猛々しく唸りをあげた。 嵐の雲を割って朝日が差しはじめる頃、風はようやく収まった。 いつの間にか青白い光りが部屋のなかに入ってきていた。 女はまだ寝入っていたが、その指は相変わらず彼の指をしっかりとつかんでいるようだった。 寝息は変わることなく微かで、規則正しかった。 絹のような黒いまつげは白い頬の上でじっとしている。 唇は――完璧な形の唇は――静かな線を描いて休らっていた。 彼は、なぜか分からないが、この眠りのなかに新しいものが存在していることに気がついた。 目はしょぼつき、手足は痛んだが、彼は座ったまま夜を過ごした。 タペストリーで飾られた壁を小さな背景として、夢が次から次へと立ちあらわれては消えていった。 彼女が目を開けて彼を見たとき、眠りについたときに見せた、あの同じ微笑みが彼女の唇をほころばせた。

 「とってもくつろいだ気分。 気持ちがいいわ。 わたし、夢を見たのよ。 素敵な夢」

 火は消えていて、部屋は寒かった。

 「さあ、部屋に戻らないと」

 彼女はごくゆっくりと指を放し、腕を差しあげた。

 「抱いていって。 まだ半分眠っているの。 もう一回寝たいわ」

 彼は彼女を持ちあげた。 彼女の指が首の回りにまといつき、彼女の頭は満足のため息とともに後ろにのけぞった。 彼は折りたたみ戸を開けることができず、彼女を抱いていったん廊下に出てから、彼女の部屋に入った。 そして乱れていないベッドの上に彼女を横たえた。

 「寝心地はいいかい?」

 「とっても」彼女は眠そうにささやいた。 「キスして、エヴェラード」

 彼女の手は彼の顔を引き寄せた。 彼は唇を額に押しつけた。 それから毛布をかけてやると、逃げるように部屋を出た。

第十三章

 シーマンの愛想のいい顔に陰りがあった。 その日の朝、ミスタ・マンガンが出発したあと、オーバーコートに身をくるみ、主人と二人でテラスを散歩しているときのことだ。 彼はいささか唐突に思っていることを相手にぶつけた。

 「さっそくわたしが訪ねてきた目的について話そう。 君にとっては素晴らしいニュースだ。 しかしその前に…… 」

 「決行のときが来たのか?」ドミニーは怪訝そうに訊いた。 「しかし、君も知っての通り、わたしはここでまだ足場も固めちゃいないんだよ」

 シーマンは冷淡な口調で説明した。 「その足場固めについて一言言っておく。 ケープタウンで出会ってから、われわれはずいぶんお互いを見てきた。 君はわたしがどんな情熱と目的を持って生きているか知っている。 息抜きいうのは、身体がひからびてぼろぼろにならない限り、人間には必要なものだが、その息抜きにうち興じているわたしの姿も多少は見ている。 だから分っていると思うが、仕事の必要を離れたときのわたしは実は感傷的な男なんだよ」

 「それは認めるよ」ドミニーはぼんやりと言った。

 「君は大事業に乗り出した。 君が本部から指令を受け取ったちょうどそのときに、ドミニーというイギリス人が君のキャンプにやってきた。 これはまさしく天の配剤だった。 君が練りあげた計画はわれわれ全員の賛成を得た。 君は君の最終的な目的を達成するために、実にユニークな立場に置かれることになる。 さて、わたしの言うことをよく聞いて、誤解しないようにしてくれ。 計画を進める上で肝心なのは情け容赦のなさだ。 目的達成に一歩でも近づくことができるなら、ありとあらゆるためらいも慎みも踏みにじる価値がある。 しかし目的にとって役に立たない行為は醜いだけだ。 わたしは幻滅を感じる」

 「いったい何の話だ?」

 「わたしは寝ているあいだも片耳だけはそば立てているんだよ」

 「それで?」

 「今朝早く、君が部屋を出るのを見た。 ドミニー夫人を抱えて」

 ドミニーの日焼けした顔にかすかな青みがさし、目がぎらりと金属のように光った。 一度か二度、急いで呼吸を整えてようやく声を出すことができた。

 「それが君と何の関わりがあるのだろう?」

 シーマンは相手の腕をつかんだ。

 「いいかね、われわれは固く結ばれている。 ブラフは通用しない。 わたしは君が他人になりすますのを手伝うためにここにいる。 財産、地位、人柄といった点に関して。 ちなみに君は今、それらを順調に回復しつつある。 さらに君がありきたりの色恋にふけることに、わたしは少しも干渉しない。 だが、これだけははっきり言っておく。 いくら美しいからといって、心を病んでいる夫人を騙したり、かりそめの夫の地位につけこんだりするのは、国家にとってよほど利益になるという場合を除いて、プロシアの貴族が取るべき行いでは断じてない」

 ドミニーの怒りは表面にあらわれることなく燃えつきてしまったようだった。 彼は相手の言葉にほんのわずかの憤りさえ示さなかった。

 「心配しなくていい、シーマン。 微妙な立場だが、わたしは名誉を重んじる人間としてふるまう」

 「それを聞いてほっとしたよ。 今朝のことは、わたしを不安に陥れようとしてわざとやったのだな」

 「君の率直な忠告は尊重する。 実は昨日の晩、ドミニー夫人が嵐を怖がって、わたしの部屋に入ってきたのだ。 安心してくれ。 わたしは立場をわきまえ、尊敬と同情を持って彼女に接した」

 「ドミニー夫人は奇妙な具合に予定を狂わせるかもしれない」シーマンは考えこむように言った。

 「どんなふうにかね?」

 「近所の人が共通して彼女に持っている印象があるね。 彼女がただ一つのことに取り憑かれているということ、つまり君を憎んでいるということだ。 彼女は君がこの家で再び一晩を過ごすことがあれば、君を殺すと誓いを立てた。 君は大胆な男だから、当然、そんなことは無視した。 しかし次の日の朝、寝間着に血がついていたそうじゃないか」

 ドミニーはゆっくり眉毛をつりあげた。

 「ずいぶん召使いたちに歓迎されているんだな」思わず嫌味を言った。

 「われわれのためにも、君のためにも必要なことだ」そっけない返事が返ってきた。 「話をつづけると、正気を失った人というのは、一度思いこむと、実に執念深いものなのだよ。 昨日の晩の彼女には少しも君を殺そうという様子がなかった。 彼女の愛想のよすぎる態度はわれわれの計画をあやうくしかねない。 分かるかね」

 「どういうふうに?」

 「君の正体が疑われたとする。 いや、その可能性が日ごとなくなってきていることは認めるが、もしも疑われるようなことがあれば、ドミニー夫人があっさり敵意をなくしてしまったことは、君が、君の主張する人物とは違うという強力な推定証拠になるだろう」

 「なるほどね。 その可能性は大いにある。 しかし君のニュースとやらはそんなことじゃないだろう」

 「そうだ。 よろしい、聞きたまえ。 またとないチャンスが君に訪れたのだ」

 「聞かせてくれ」

 「説明しよう。 この二、三日ではっきり悟っただろうが、君の背後には金を湯水のように使う組織がある。 戦争においても外交においても、ドイツは目的を達成するためなら金に糸目をつけない。 昨日は抵当の返済のために、九万ポンドが君の預金口座に振りこまれた。 何ヶ月後か何年後か知らないが、遺産を受け継ぐドミニー家の遠い親戚がその恩恵に浴するわけだ。 金は回収しない。 そんなものは日常的な出費の一項目に過ぎないんだ」

 「わたしの立場を固めるためとはいえ、実に気前のいいやり方だ」とドミニーは認めた。

 「気前がいいのは、長い目で見れば、それがいちばん安全だからだよ。 一文無しで帰国していたら、君に親切な手を差し伸べる人なんか、誰もいなかっただろう。 今でこそ完全に消えてしまったが、へたをすれば君への疑いが生まれていたかもしれないのだ。 さらに、そのどちらよりも深刻なのは、君が社交界に出られなくなることだ。 社交界への進出はわれわれの計画を推し進める上で、絶対必要なことなのだ」

 「そろそろわたしが何をするべきか、もう少しはっきりさせる時じゃないか?」

 「今朝、その話をするつもりだったんだ、このニュースがなければね。 しかし、話のついでに言えば、これだけは約束できる。 君はそんじょそこらのスパイのような、あざとい仕事をさせられることはない。 われわれは別の目的のために君を必要としている」

 「それでニュースというのは?」

 「君の念願が聞き入れられたんだよ。 皇帝が君との会見を望んでおられる。 じきじきに指示を下したいとのことだ」

 ドミニーはテラスの上で急に足を止めた。 彼は相手と組んでいた腕をはずし、呆然と彼を見つめた。

 「皇帝が?わたしはドイツに行くのか?」

 「さっそく出発しよう。 個人的には、こういうやり方は賢明だとも必要だとも思わない。 しかしわたしに相談することなく決められてしまったのだ」

 「わたしに言わせれば、これは自殺行為だよ。 よりによってドイツに行くだなんて、理由をどう説明するんだ?こっちに、まだ、腰も落ち着けちゃいないのに」

 「口実はなんとかなるさ。 君の名義で株を買い取った鉱山は、ドイツの資本で運営されているものが多い。 そのうちの一つが経営難に陥ったと言っても、誰も不思議には思わない。 株主投票が必要な事態をでっちあげるよ。 君は悩むことはない。 それより、素晴らしいことじゃないか!一日とはいえ、追放の命令が解除されるんだ。 もう一度、祖国の空気が吸えるんだぞ」

 「それは素晴らしいな」ドミニーは低く言った。

 「君には未来を予感させる息吹になるだろう。 さあ、行動だ。 わたしは行動するのが大好きなんだ!時刻表と運転手の用意をしたまえ」

 二人は朝のうちに車でノリッジに向かい、そこからハリッジに行くことになった。 ドミニーは旅の服装に着替えてミセス・アンサンクを呼んだ。 間もなく彼女が書斎にあらわれた。 彼は椅子を差し出したが、彼女は座ろうとしなかった。

 「ミセス・アンサンク、どうして十年間も妻の付き添いで満足してきたのか、理由を教えてくれませんか」

 ミセス・アンサンクはこの唐突な質問に驚いた。

 しばらく間をおいて彼女は答えた。 「ドミニー夫人がわたしを必要となさったからです」

 「あなたは自分が妻にとって最上の付き添いであると考えますか?」

 「他の人は誰も受け入れようとなさいませんでした」

 「妻に心をこめて尽くしていますか?」

 ミセス・アンサンクは見るからに頑固な、気性の激しい女だったが、明らかにドミニーの一連の質問に当惑させられているようだった。

 「そうでなければこんなに長くお屋敷にいるでしょうか」

 「わたしには妻があなたを必要とする理由が見いだせない。 さらにあなたは、わたしのことを、息子を殺した犯人だと固く信じている人間の一人だ。 妻に仕えているのは、キリスト教徒としての振る舞いですか。 つまり悪に対して善をもって報いるということですか?」

 「いったい何がおっしゃりたいのです、サー・エヴェラード」彼女は荒々しく訊いた。

 「こういうことです。 わたしは妻に健康を回復させてやるつもりです。 そのために専門家をここに呼びます。 そして何よりしばらく転地療養させようと思う。 あなたがそばにいないほうがはるかに妻の回復に期待が持てる、わたしはそう思うのですよ」

 「まさかわたしを追い出そうというのですか?」

 「そうです。 まだドミニー夫人には話していませんが、いずれ遠からず妻もわたしの意向に同意してくれるでしょう。 あなたの経済的な将来は保証します。 毎年三百ポンドの金を支給しましょう」

 女は初めて気弱な態度を示し、震えはじめた。 その目に奇妙な怯えが浮かんだ。

 「ここを離れるわけにはいかないのです、サー・エヴェラード。 ここにいなければならないのです!」

 「なぜです?」

 「ドミニー夫人はわたしなしではやっていけません」彼女はむっつりといった。

 「それは妻が決めることです。 聞くところによると、あなたは妻に、息子さんの幽霊が出るという、くだらない噂を積極的に吹きこんでいる。 それにわたしに対する理不尽な憎しみをあおり立ててきた」

 「理不尽ですって?」女は叫んだ。 「あなたにそんなことが言えるのですか?両手を血に染めて帰ってきたくせに。 あなたさえ邪魔しなければ奥様が愛していたはずの男の血に。 それをよくも理不尽だなどと」

 「言うべきことは以上です、ミセス・アンサンク。 大事な用があって、二、三日ここを離れなければなりません。 帰り次第、今言った方向で改めていきます」女の顔の奇妙な変化を見つめながら彼は言い添えた。 「そのあいだのことですが、今朝ハリソン先生に手紙を書きました。 午後からこちらに来てもらい、わたしが戻るまでドミニー夫人を直接お世話いただくことになっています」

 彼女は相手を見ながらじっと立ちつくしていた。 それから少しだけ近づくと、彼の顔を覗きこむように身を乗り出した。

 「十一年あれば人は変わるもの。 でも弱虫が治ったというのは聞いたことがない」

 「これ以上話はありません。 これからすぐ妻に会いに行きます」

 車の警笛が鳴りはじめるころ、ようやくドミニーは妻の部屋に入ることを許された。 彼女は暖かい紅色のゆるやかなガウンをまとい、彼が来るのを今か今かと待っていたようだった。 強い憎しみは白い顔からも、異様なほど穏やかな瞳の奥からも消えていた。 彼女は彼に向かって手を差し伸べ、軽く眉をひそめた。 子供のような失望が彼女の態度にうかがわれた。

 「お出かけになるの?」

 「すぐ出かけなければならないんだ。 君に会うため一時間待ったよ」

 彼女は顔をしかめた。

 「ミセス・アンサンクのせいよ。 わざとわたしの持ち物を隠したのだと思うわ。 会いたくてたまらなかったのに」

 「ミセス・アンサンクのことで話がある。 彼女に出ていってもらって、誰かもっと若い、親切な人に付き添ってもらうというのは嫌かい?」

 それは彼女には考えることもできないことのようだった。

 「ミセス・アンサンクは決して出ていかないわ。 彼女はあの声を聞くためにここにいるのよ。 一晩中耳をすませて待っていることもあるわ。 声が聞こえると、ほっとするの」

 「君は?」

 「わたしは怖い。 だってそんなに強くないもの」

 「ミセス・アンサンクは好きじゃないんだね」彼は心配そうに尋ねた。

 「ええ」困惑しながら彼女は答えた。 「彼女は怖くてたまらない。 でも、そんなことしても無駄よ、エヴェラード。 絶対出ていこうとしないわ」

 「わたしが戻ってきたら分かるさ」

 彼女は相手の腕を取って、自分の両手を握り合わせた。

 「あなたが行ってしまうなんて、残念だわ。 早く戻ってきてね。 そうしてくれるでしょう――あなた?」

 ドミニーの爪が、握り締めた手の肉に食いこんだ。

 「三日以内に戻ってくる」彼は約束した。

 「あのね」彼女はこっそり秘密をささやくように言った。 「最近、わたし、気持ちが変わったの。 昨日そのことを話したけど、理由は教えなかったわね。 もうわたしのことを怖がらないで。 わたし、分かったのよ」

 「何が分かったんだい?」彼はかすれた声で尋ねた。

 彼女は声をひそめ、耳打ちするように言った。 「わたし、わかったの。 あなたの首に短剣を突きつけて、急に殺す気がなくなったあの瞬間に。 あなたはときどきあの人そっくりだわ。 でもあなたはエヴェラードじゃない。 わたしの夫じゃないのよ。 別人なのね」

 ドミニーははっと息をのんだ。 二人は連れだってドアの方へ歩いた。 ミセス・アンサンクがやせ細った、酷薄な顔を、勝ち誇ったように輝かせ、目をぎらぎらさせながら立っていた。 彼女の唇はまるでひとりでに動くかのように、女主人の言葉をくり返していた。

 「別人!」

第十四章

 二人のあわただしい旅の最中に、シーマンは連れの様子を見て考え込んでしまうことが幾度かあった。 ドミニーはそれこそ極端に無口になった。 過去という網に絡め取られ、心を奪われ、そのあまり夢のなかにでもさまよいこんだようだった。 必要なときしか喋らず、外界が一切の意味を失ってしまったようだった。 旅も終わりに近づいたとき、暖房の効きすぎた簡素なコンパートメントのなかで、シーマンは席から身を乗り出した。

 「里帰りだというのに憂鬱そうだな、フォン・ラガシュタイン」

 「ドイツには二度と帰らないとずっと思っていたからね」

 「いまも過去が忘れられないか」

 「忘れたことなんかないさ」

 列車はどこまでも続く葡萄の丘を走り抜け、平地に出たかと思うと、今度は松林に入った。 そのなかほどの地点に開けた空間が広がっていて、窓を閉め切っていても、朽ち木が発する樹脂の匂いがコンパートメントに染み込んでくるようだった。 やがて列車の速度が落ちた。 シーマンは時計を見て立ちあがった。

 「支度をしたまえ。 もうすぐ下車する」

 ドミニーは窓外を見た。

 「しかし、ここはどこなんだ?」

 「目的地から五分以内のところだ」

 「でも家一軒見えないじゃないか」ドミニーは意外そうに言った。

 「皇帝の専用列車が君を待っている。 皇帝は今、幕僚たちと軍隊視察に回っていらっしゃる。 われわれは光栄にもベルギー国境まで帰路を同伴することを許されたのだ」

 列車はもう停まっていた。 髭を生やした制服の鉄道職員がコンパートメントのドアを開け、彼らは切り出したばかりの松材で、最近建てたらしい小さな駅の、狭いプラットフォームに降り立った。 列車は彼らが降りるとすぐさま走り去った。 彼らの旅は終わったのだ。

 シーマンと鉄道職員のあいだで短い会話が交わされるあいだ、ドミニーは興味深そうにあたりを見回した。 駅の周りには、木立や灌木の陰に見え隠れしながら、兵士たちが隙なく非常線を張っていた。 彼らは待避線に停まっている列車から、つい先ほど出てきたのだろう。 その真ん中に一両だけ、黒地に金の派手な装飾を施し、中央にドイツ王家の紋章をあしらった特別優等客車があった。 シーマンは会話がすむと、ドミニーの腕を取って、線路を越え、そちらの方へ彼を導いた。 士官がデッキで彼らを迎え、ドミニーに堅苦しい礼をした。 ドミニーはそれを面白そうに眺めた。

 「皇帝は今すぐあなたにお会いになります。 どうぞこちらへ」

 彼らは列車に乗りこみ、贅沢なカーペット敷きの通路を進んだ。 案内役が立ち止まり、小さな休憩室を指さした。 そこには数人の男が椅子に腰掛けていた。

 「ヘア・シーマンのお友達がこちらにいらっしゃいます。 皇帝陛下はしばらくあとであなたにお会いになります。 フォン・ラガシュタイン男爵はこちらへ」

 ドミニーは貴賓車に連れて行かれた。 案内役は入り口のところで待つように手で彼を押し止め、自分は数歩前進して、椅子に座っている人物の前で立ち止まり敬礼した。 彼は地図の上に身をかがめていた。 その地図は将軍の軍服を着た、いかめしい顔の男が広げたものだった。 皇帝は足音を聞いて視線をあげ、将軍の耳に何事かをささやいた。 将軍はカチリと軍靴のかかとを合わせ、引きさがった。 皇帝はドミニーに進み出るよう手招きした。

 「フォン・ラガシュタイン男爵をお連れしました、陛下」若い士官が言った。

 ドミニーはさっと不動の姿勢を取り、ぎこちなく一礼した。 皇帝はにっこりと笑った。

 「ドイツ軍人が軍服を脱いでもじもじしているというのも、面白い見物だな。 伯爵、行ってよろしい。 フォン・ラガシュタイン男爵、座りたまえ」

 「失礼いたします、陛下」ドミニーは威厳に満ちた主人の指さす椅子に腰をおろした。

 「万事遺漏なく進展しているようだな。 楽にしたまえ。 アフリカでは立派な働きをしてくれたと報告を受けている」

 「陛下のご意志を実現するために全力を尽くしました」

 「君の仕事ぶりがあまりに素晴らしかったので、顧問官が異口同音に進言してきたのだ、間もなくわれわれにとって重大な関心事となる計画に引き戻すように、とな。 指令を受けて君はさっそく行動に移ったようだ。 イギリスの男爵になりすますことに成功したと聞いているが?」

 「今までのところ順調に進んでいます」

 「アフリカでの仕事も大切だったが、今の任務はそれよりはるかに重要だ。 これからしばらく腹蔵なく君と話がしたい。 しかしその前にまず乾杯しようじゃないか」

 皇帝は脇にあるマホガニー製の小テーブルから首の長いモーゼルワインの瓶を取り出し、美しいグラスを二つ満たすと、一方を相手に渡し、他方を高く掲げた。

 「祖国のために!」と彼は言った。

 「祖国のために!」ドミニーは唱和した。

 二人は空のグラスを置いた。 皇帝は羽織っていた灰色の軍用マントを後ろに押しやった。 幾つもの勲章と飾りがあらわれた。 皇帝の指はまだワイングラスの脚をもてあそんでいる。 しばらく物思いにふけっているような様子だった。 厳格で、どこか冷酷な口元は、固く引き締められ、額にはかすかにしわが寄っていた。 座っていても背筋は伸び、安楽椅子のクッションに寄りかかることはない。 目はややつりあがり、顔の表情がいっそう重々しさを増した。 たっぷりと五分は完全な沈黙がつづいた。 重大な用件をひとまず横に置いて、全神経をドミニーの計画に集中しているかのようだった。

 「フォン・ラガシュタイン」皇帝はようやく切り出した。 「君を呼んだのは君のイギリス滞留について話があったからだ。 任務の内容を、わたしから直接聞いてもらおうと思ったのだ」

 「光栄に存じます」

 「君はわがスパイ組織の制限、権威、義務から完全に切り離されていると考えてもらいたい。 君に期待しているのは別のことだからだ。 なりすます相手になりきってもらいたい。 典型的なイギリスの地方郷紳として労働問題やアイルランド問題、国民兵役計画の進展、そしてそのうち連絡が行くだろうが、その他の社会運動について研究してもらいたいのだ。 どうやらイギリスはわが国に疑いの目を向けはじめているようだが、論評や小説の形で、そうした疑惑をあおり立てている物書きたちのリストを作ってもらいたい。 これはどれも君の本来の任務からすると周辺的なものに過ぎない。 そのことはわれわれの畏友シーマンからすでに聞いているだろう。 これはターニロフ王子と友情を結ぶためのもの、いや、できれば親交を深めるためのものだ」

 皇帝はいったん言葉を切って、再び窓の外に広がる風景に目を転じた。 彼の目は明らかに夢想家の目ではない。 しかしそのときは思い悩むような色に満ちていた。

 「大使はわたしをあたたかく歓迎してくれました」

 「ターニロフは平和の鳩だ。 オリーブの小枝を口にくわえて運んでいく。 わが政治家と顧問官なら、もっと断固とした資質の大使をロンドンに送っただろう。 しかしわたしは不賛成だった。 ターニロフは愚か者を騙すにはうってつけの男だ。 なぜなら彼自身が愚か者だからだよ。 自国よりも強大で、文化も進み、よりすぐれた指導者をいただく国家が日一日と忍び寄って来るというのに、海の守りも陸の守りも固めようとしない国にはぴったりの大使だ」

 「イギリスは海軍に全幅の信頼を置いているようです、陛下」ドミニーはためらいがちにそう言った。

 相手の目が光った。 唇が嘲るように歪んだ。

 「たわけた連中だ!一旦この剣が鞘を離れ、カレーとブローニュ沿岸の町を押さえ、わが大砲がドーバー海峡を制したら、彼らの海軍など何になろう!島国が威張りくさっていた日々は終わったのだ。 イギリスの傲慢な海上制覇が終わったのと同じくらい確実に」

 皇帝は自分のグラスとドミニーのグラスを再び満たした。

 「フォン・ラガシュタイン、数ヶ月後には、なぜターニロフの仲間になれと命令されたか、その理由が分かるだろう。 今よりももう少しはっきり君は任務を理解する。 その真の狙いは時期を待って明らかにされるだろう。 君はどんな時でもシーマンを信じたまえ」

 ドミニーは一礼し、黙っていた。 皇帝はまたもやひとしきり思い悩んだあと、こうつづけた。

 「フォン・ラガシュタイン、わたしが君に追放を宣告したのは、公正な処置だった。 国民の風紀を正すことは、彼らのためにより強大な帝国を築くという誓いと同じく、わたしの神聖な役目だ。 君は第一に、同盟国のもっとも有力な貴族の妻を誘惑し、第二に、そのあとの決闘で彼を殺してしまった」

 「あれは事故だったのです、陛下。 王子を傷つける気はさらさらなかったのです」

 皇帝は顔をしかめた。 彼は言い訳を一切嫌っていた。

 「逆の形で事故が起きればよかったのだ」と皇帝は鋭く言った。 わたしはかけがえのない部下を失うべきだったのだ。 しかし現実には君が生き延び、罰を受けた。 それでも君のアフリカでの活躍はめざましく、落ち度もなかったという。 わたしはこの一回だけ、君に名誉を回復するチャンスをやろうと思う。 イギリスでの任務を見事にこなせば、今君が服している追放宣告を撤回しよう」

 「ありがたいお言葉です。 報われる希望がなかったとしても、この任務はそれだけで全力を尽くすに値します」

 「よくぞ言った。 わが帝国の息子たちは、すべからくその意気で未来を見つめなければならない。 思うに彼らも、そしてとりわけ側近の者たちも、わたしに伝えられた神の言葉をそれなりに感じ取っているようだ。 長年、わたしは国民のために平和の構築をめざしてきた。 しかし天がわたしに示したもう一つの義務を果す時が近づいたのだ。 忠誠なるドイツ人は必ずや、みな、わが剣を包む雷光にひれ伏し、それを振るう鉄の意志を共有するに違いない。 さがってよいぞ、フォン・ラガシュタイン男爵。 休憩室に供回りの者がいるから、そちらへ行たまえ。 数分後に出発し、君らをベルギー国境に置いていくことになっている」

 ドミニーは立ちあがり、強ばった一礼をしたあと、カーペット敷きの通路を引きさがった。 皇帝はすでに地図の上に身をかがめていた。 休憩室のドアの前に立っていたシーマンは、彼をなかに招き入れ、随行員たちを紹介した。 一人、片眼鏡をはめ、顔に傷痕のある、操り人形のように奇妙な動きをする若者が、不思議そうに彼をみつめた。

 「数年前にミュンヘンでお会いしましたね、男爵」

 「この国の方とは誰ともお会いしたことがございません」ドミニーはきっぱりと言った。 「わたしは皇帝のご命令に従い、過去の記憶と思い出を一切頭のなかから消し去ったのです」

 若者の顔から疑わしげな表情が消えた。 そばにいたシーマンはじっと眉をひそめていたのだが、彼を思いやるように頷いた。

 「たいした役者ですね、男爵。 ドイツ語まで何となくイギリス人訛りになっていますよ。 座って一緒にビールを飲みましょう。 もうすぐ昼食が出ます。 汽車を降りるまでもう皇帝の御前に呼び出されることはありません」

 ドミニーは慇懃に礼をして、他の人々に加わった。 列車はすでに動き出していた。 ドミニーは物思いにふけるように窓の外を眺めていた。 謁見に呼び出されるのを待っていたシーマンは彼の腕を軽く叩いた。

 「気持ちは分かる。 ベルリンから離れていくんだもの、辛いだろうね。 でも忘れてはいけない、追放の宣告が取り消される日は遠くないのだ。 君は罪の償いにつとめてきた。 いいかい、わたしは君の友人や同輩と肩を並べるような人間じゃないが、でも彼らのなかに皇帝と同じ意見の人は一人もいない」

 黒地に白い縁取りをした制服の給仕が笑顔であらわれた。 背の高いグラスにビールを注いで運んできたのだ。 ドミニーの向かいに座っていた上級士官がグラスをあげて一礼した。

 「フォン・ラガシュタイン男爵に乾杯しよう。 もっと早くお知り合いになれなかったことが残念です。 近い将来、戦友として、偉業に取り組む同志として、ご帰還のお祝いができることをお祈りします!万歳!」

第十五章

 ノーフォーク狩猟の会のいちばん新しい、いちばん人気のある会員、サー・エヴェラード・ドミニー男爵は、ドイツから戻って数ヶ月後のある午後、裏の小山の頂きから屋敷の菜園まで長々と続く森の一角に立っていた。 彼の左手には適当な距離を置いて四人の狩猟隊のメンバーが並んでいた。 彼の隣にはミドルトンがトネリコの杖をついて立っていて、勢子の近づいてくる音を聞いていた。 反対側の隣にはダークグレーのスーツに山高帽という妙に場違いな格好のシーマンが立っていた。 年老いた狩猟場管理人は、時が経つとともに心配事などすっかり吹き飛んだのか、低い声でいたって満足そうにおしゃべりをつづけた。

 「このあたりはドミニーの旦那様でないとだめなようですなあ」彼は空高く飛んでいたキジが頭上から落ちてくるのを見ながら言った。 「先代の旦那様の時のことでした。 あるとき、この場所をウェンダミア卿にお任せになったのです。 卿はキジを撃たせたらイギリスじゃ指折りの名手でした。 ですが、椋鳥の群れみたいに頭の上を飛んでいるっていうのに、午前中かかっても獲物は数羽、弾がかすって落ちたのだけだったんです」

 「飛び出して急に右よりに身体をひねるんだろう?」再び見事な腕前で鳥を撃ち落としたドミニーは言った。

 「その通りですよ、旦那様。 しとめるこつを知っているのは、ドミニー家の方だけですな。 あの外国の王子様とかいうお方は、鳥のこたあ随分知っていなさるそうだが、さすがにこのへんは任せられません」

 老人は数歩丘をあがって、高いところから森を抜ける勢子の進み具合を観察した。 シーマンが振り返り、いかにも感に堪えないような口調で言った。

 「君は奇跡だよ。 キジ狩りの腕までドミニーをまねたみたいだな」

 「覚えているだろう、ハンガリーじゃ、もっと高く飛んでいるのを撃ち落としていた」彼はこともなげに言った。

 「わたしは狩りはやらない」とシーマンは言った。 「狩猟のことはさっぱり分からん。 しかしこれだけは言える。 生まれたときからこの土地に住み着いている老人が、君の射撃をうやまうように見て、銃の持ち方まで昔と変わっちゃいないと思っている」

 「鳥が身体をひねるなんて、土地の人の迷信にすぎないよ。 森の端は土地が傾斜しているんだ。 だから実際よりも左の方を飛んでいるように見えるだけなのさ」

 シーマンは森の側面をしばらくじっと見ていた。

 「公爵夫人が来る。 公爵と同じでわたしを嫌っているようだ。 お偉い貴婦人なものだから思ったことをずけずけとぶつけてくる。 行く前に一言だけ注意しておこう。 アイダーシュトルム王女が午後到着するよ」

 ドミニーは顔をしかめたが、管理人の叫びに応じてくるりと振り向くと、兎を撃ち殺した。

 彼は抗議するように言った。 「君は王女の訪問について全部を話してくれたわけじゃなかったのだな」

 シーマンは一瞬考えこむような様子だった。

 「そうだね。 全部は話してなかった。 これから気をつけよう」

 彼は隣のハンターが獲物を待ちかまえているところへぶらぶらと歩いて行った。 そこではミスタ・マンガンがドミニーとはおよそ正反対の射撃の腕を披露していた。 数分後、公爵夫人がドミニーの側にやってきた。

 「ヘンリーに、もう見ちゃいられないって言ってやったわ。 四十発撃って、兎を一匹怪我させただけなんですもの」

 「ヘンリーは熱心じゃありませんものね。 でも少々手厳しすぎるんじゃありませんか。 ついさっき大物の雄キジを持ってくるのを見ましたよ。 鳥のことは気にしなくても大丈夫。 いずれはみんな獲物となって屋敷に来るんですから」

 公爵夫人は革を接ぎ合わせた、ひどくあか抜けた服を着ていた。 厚底の靴に脚絆を巻き、小さな帽子をかぶっていた。 血色は非常によかったが、なにかむっとしているような感じだった。

 「ステファニーが今日来るんですってね」

 ドミニーは頷いた。 彼はじりじりするくらい射程距離の外を飛んでいる一匹の鳩を見つめているらしかった。

 「数日こちらでお過ごしになる予定です。 死ぬほど退屈すると思いますけどね」

 「どこで彼女とそんなに親しくなったの?」従姉妹が興味津々尋ねた。

 「初めてあったのは、カールトンホテルのレストラン。 イギリスに着いて二、三日後のことです。 わたしを別人と勘違いなさいましてね、ありきたりのお詫びを言って別れたんです。 その日の晩、今度はカールトン・ハウス・テラスで会いました。 ターニロフの友人だったんですよ。 それからはしょっちゅう会いました。 町にいたのはほんのわずかな期間だったけど」

 「そう」公爵夫人は考えこんだ。 「それもまたあなたがあらかじめ用意していたみたいな、驚くべき話の一つね。 いったいドイツの大使とどうやってあれほど親しくなったのかしら?」

 ドミニーは大らかに微笑んだ。

 「別にそれほど意外なことじゃないでしょう。 鉱山事業の共同経営者ミスタ・シーマンが大使のところへ連れて行ってくれたんです。 大使は政治家としても、狩猟家としても東アフリカにとても関心をお持ちなんです。 われわれとの会話が面白かったのでしょう、ある程度親しくおつき合いするようになりました。 わたしもそのことを誇りに思っています。 王子に対してはこの上ない尊敬と親しみを感じていますよ」

 「わたしもよ。 あの方は魅力的だと思うわ。 ヘンリーは馬鹿か悪党か、どっちかだって言うけれど」

 「ヘンリーは偏見に目がくらんでいるんですよ」ドミニーはちょっといらいらした。 「ドイツ人は悪魔としか宴を張らないと思っているんですから」

 「そんなに怒らないで」彼女は彼のコートの袖に軽く手を触れて懇願した。 「わたしは王子を高く評価しているのよ。 ドイツ人じゃ、あの人だけだわ、この人こそ紳士だとわたしが直感したのは。 あら、何をにやにや笑っているの?」

 ドミニーは真剣な顔を彼女に向けた。 「にやにやなんかしていませんよ」

 「笑っていたわ」

 「ちょっと変なことを考えただけです。 あなたは油断も隙もありませんね、キャロライン」

 「わたしはめったに間違わないの。 ステファニーの話に戻るけど」

 「何でしょう?」

 「彼女がカールトンのレストランであなたを誰と見間違えたか知っている?」

 「教えてください」彼ははぐらかすように答えた。

 「レオポルド・フォン・ラガシュタイン男爵」キャロラインは無表情に言った。 「フォン・ラガシュタインはハンガリーで彼女の愛人だったの。 夫を決闘で殺してしまい、皇帝がかんかんになって、彼を東アフリカに追放してしまったのよ」

 ドミニーは狩猟ステッキを拾いあげ、銃をミドルトンに渡した。 勢子が森を抜けて出てきた。

 「ああ、そう言えば思い出した。 彼女はわたしのことをレオポルドと呼んでいた」

 「どうして彼女をここに呼ぶ必要があるのか、わたしにはどうしても分からない」相手はだだっ子のように言った。 「また――レオポルドなんて呼ばれるかもしれないじゃない」

 「そうしたら、知らん振りしてやりますよ。 でも真面目な話、彼女はターニロフ王女の従姉妹だし、二人はとっても親しい間柄なんです。 王女は狩りが大嫌いだから、二人一緒にいたら退屈しないだろうと思ったんです」

 「とんでもないわ!ステファニーはあなたを独り占めしようとするわよ。 それが狙いなんだから」

 「つまり、本気でわたしをそっくりさんの代用品にしようと思っているってことですか」ドミニーはわざとぎょっとして見せた。

 「あら、そうだとしても不思議はないわ!それにあの人はすこぶるつきの美人ですからね。 わたしは不満ではち切れそうよ、エヴェラード。 もう一人、嫌らしい小男もいるじゃない。 シーマン。 あなたも知っているでしょう、ヘンリーがあの人を見ただけで血相を変えること。 彼と一緒に食事をするなんて、うちの主人、夢にも思ってなかったと思うわ」

 「それは本当に残念だなあ。 でも大使はシーマンに大変興味を感じていらっしゃるんです。 彼が幹事を務める友好促進同盟のせいでね。 彼を招待してくれと、大使から特に希望があったんです」

 「でもヘンリーにとっては気詰まりな状況だわ。 ロバーツ卿を別にすれば、ヘンリーは実質的に国民兵役運動の主導者ですからね。 ドイツは大嫌いだし、ドイツ人を見ると誰彼かまわず不信感を抱くのよ。 なのに、こんな小さなハウスパーティーで顔をつき合わせるのがドイツ大使と、ヘンリーが一生懸命もり立てている機運を必死になって眠らせようとしている男なんですもの」

 「それじゃどうしようもありませんね」ドミニーは笑った。 「でもそんなヘンリーでもターニロフは好いていますよ。 それに時には敵と相まみえるのもいい刺激になります」

 「もちろん主人はターニロフが好きよ。 彼が憎んでいるのは、ターニロフが代表しているものなの。 でもそんなことはみんな許してあげるわ、ステファニーさえ来なければ。 あの女、本当に癇に障りだしたわ。 いつもあなた方二人の感傷的な過去を、謎かけみたいにほのめかしたりして。 それもあなたが追放された愛人に似ているっていう、それだけの理由で。 カールトンホテルであの日顔をつき合わすまで会ったことなんてないのに!」

 「彼女のことはまったく知りませんでしたよ」

 「三ヶ月のうちに過去を作りあげてしまったとしたら、手の早さにかけては、あなた、ただ者じゃないわね」キャロラインは疑わしそうに言った。 「よくものこのこ来られるものね。 厚かましいにもほどがある。 特にここは独身同然の男の家なんだから」

 彼らは次の狩猟場に着き、会話はひとまず中断された。 マガモの一群が森の池から追い立てられ、しばらく誰もが忙しかった。 ミドルトンは相変わらず感心しながら主人を見ていた。

 「高く飛びあがったカモを撃ち落とす腕は先代に引けを取りませんな、旦那様。 キジのあとにカモが出てくると、弾がなかなか当たりません。 信じられないくらいすばしこいですから」

 「アフリカに行く前もあんなに上手だったと思う?」キャロラインが訊いた。

 ミドルトンは帽子に手をやり、後ろに立っているシーマンを振り返った。

 「こちらの旦那様にも今朝早く申しあげたんですがね、あの頃よりうまくなっていますよ、公爵夫人。 前より冷静で、銃の動きにぶれがありません。 ですが、旦那様の射撃はどこに行ったって見分けられまさあ」

 シーマンの目に感嘆の光りがともった。 勢子が森から出てきて、撃ち手たちは獲物が集められるあいだ、雑談に花を咲かせた。 清々しい風と狩りの喜びがターニロフの顔からいつもの青白い色を吹き払い、彼は気さくで饒舌ですらあった。 彼はザクセンに広大な地所を持っていて、公爵に自分の狩りのやり方を説明していた。 ミドルトンは角枠の時計に目をやった。

 「まだあと一時間は充分陽がありますよ、旦那様。 ウズラ狩りになさいますか、それとも林のなかをさらってみますか」

 「ひとつ提案なんですが」ターニロフが遠慮がちに言った。 「ほとんどのキジがあの沼の向こうの陰鬱な森に逃げこんだんですよ」

 一瞬、奇妙な沈黙があった。 ドミニーは振り向いて、問題の森のほうを見ていた。 まるでその不気味な黒さと密度に見とれているようだった。 ミドルトンは持っていた獲物を落とし、ぶつぶつと独り言をいった。

 ドミニーが落ち着いて答えた。 「あれはブラック・ウッドと呼ばれているんです。 あそこに逃げこんだキジは、ここは禁漁区だと主張しているんじゃないでしょうか。 どう思う、ミドルトン?」

 老人はゆっくり頭をめぐらし、主人を見た。 どういうわけか、彼の赤銅色の顔から、色という色がことごとくかき消されてしまったように見えた。 目は地方の農民にありがちな、魑魅魍魎に対する漠然とした恐れに満たされていた。 彼は震える声で言った。 昔の恐怖がまた舞い戻ってきたのだ。

 「勢子たちをあそこに送りこみはしないでしょうね、旦那様」彼は口ごもった。 「行きたいやつなどおりはしませんが」

 「この土地のタブーに触れてしまったのかな?」公爵が訊いた。

 「旦那様がお話になるでしょうが、このあたりだけの話じゃありません、公爵様。 ノーフォークにブラック・ウッドを通り抜けようという勢子は一人もいませんよ。 純金をやると言ったって駄目です。 やあ、お前たち」

 彼は少し離れて指示を待っている勢子の方を振り向いた。 勢子は十二人おり、ほとんどががっちりした体格をしていた。 粗末なスモックにズボンという姿で、太い棍棒を手にしていた。

 ミドルトンは彼らに話しかけた。 「こちらの紳士のお一人が、金貨を一人一枚出すから、ブラック・ウッドでかりたてをやるやつはいないかとおっしゃっている。 ――連中の顔をよく見てやってくださいよ、公爵様――どうだ、お前たち」

 誰の目にも明らかだった。 提案は彼らの頬から健康な日焼けを奪ってしまった。 彼らは居心地悪そうに棍棒をいじくり回した。 そのうちの一人が帽子に手をやり、ドミニーに語りかけた。

 「わたしはあれを聞いただけじゃなくて、この目で見たんですよ。 あそこに近づくくらいなら、農家をやめます」

 キャロラインが突然ドミニーの腕を取った。 その声にはいたたまれない気持ちがこもっていた。

 「ヘンリーったら馬鹿ねえ!エヴェラード、わたしが悪かったわ。 ごめんなさいね。 うっかりしたの。 すぐ彼の口を塞ぐべきだった。 主人たら忘れっぽいのよ」

 ドミニーの腕は彼女の指の圧力に一瞬、反応した。 それから彼は勢子の方を向いた。

 「誰もブラック・ウッドに行けなんて頼まないさ。 ハントの刈り株畑の裏手に回ってくれ。 キジを根本に誘いこんで、それから庭園の方に追い出すんだ。 われわれは庭園の柵にそって立っている。 それでどうだろう、ミドルトン?」

 管理人は帽子に手を触れ、きびきびと歩き出した。

 「わたしも一緒に行ってきます。 フラーの曲がり角のところで、鳥どもは急に向きを変えますからな。 側面から追い立てることができるかどうかやってみますよ。 撃ち手の立ち位置はご存じでしょう、旦那様」

 ドミニーは頷いた。 勢子は誰も彼も、いつにないほど急いで目的地に移動した。 彼らはブラック・ウッドに背を向けていた。 ターニロフが主人に近づいてきた。

 「ひょっとしてわたしがまずいことでも言ってしまったのかな?」

 ドミニーは首を横に振った。

 「お尋ねになって当然の質問をなさっただけですよ、王子。 隠す理由もないのでお話しましょう。 あの森の近くで悲劇が起きたのです。 わたしがイギリスを何年も離れることになった悲劇が」

 「それは申し訳なかった――」

 ドミニーは王子を遮るように言った。 「別にその話を避ける気はありません。 わたしはあそこである晩、うらみを持つ男に襲われました。 取っ組み合いの争いになり、わたしはいささか尋常じゃない格好で家に帰りました。 わたしを見て妻はすっかり怯え、それ以来病気になってしまったのです。 それはともかく、先ほどのような迷信が生まれ、わたしがずっと疑いの目で見られるようになったのは、わたしと争った男がそのときから行方不明になっているからなんですよ」

 ターニロフはあまりにも物語に惹きつけられ、同時に、主人の語り方に謎めいたものを感じたものだから、つい謝ることを忘れてしまった。

 「そのときから行方不明!」

 「争いがどう決着したのか、わたしははっきり覚えていないのです。 襲ってきた男が気を失って地面に倒れたのをそのまま残してきたと思うのですが」

 「それではブラック・ウッドに出没するというのは彼の幽霊なのかね?」

 ドミニーは忌まわしい思いを振り払うように身体をぶるっと震わせた。

 彼は歩きながら、説明した。 「王子、そもそもあの森は不快な場所なのです。 中心部にさえ泥沼が幾つもあり、はまりこんだら、それまでです。 ありとあらゆる害獣が跋扈し、藪のなかには汚らしい昆虫や鳥がいます。 あの場所の性格が迷信を助長したのでしょう。 今では誰もが固く信じています」

 「地元の人はあそこに幽霊がいると思いこんでいるんだね?」

 「それだけじゃありません。 もう何年も人が入りこんだことのない森の奥には、超自然的な悪霊が住み着いていて、夜だけそこから出てきては、わたしの屋敷の窓辺で叫び声をあげるとまで言っています」

 「見た人はいるのかね?」

 「村の人が一人か二人。 他にはいないはずです」

 ターニロフは質問をつづけようとしたが、公爵が彼の肘に触れて、彼を一方の側に引き寄せた。 まるで沼地からわき起こる霧に注意を引こうとしているかのようだった。

 「王子、その話はドミニー夫人の狂乱とわかちがたく結びついているんですよ。 お分かりいただけるでしょう」

 指の先まで外交家である王子は、はっとした様子だった。 しかし唇のかすかな笑みは絶やさなかった。

 「自分の軽率を深く恥じます。 サー・エヴェラード、アフリカで散弾銃狩りをしたときの話を聞かせてくれる約束でしたね。 向こうにウズラのような鳥はいるんだろうか」

 ドミニーは笑った。

 「もう十分もすればミドルトンがウズラを追い立ててくるでしょうが、それが撃てるなら東アフリカのどんな鳥もしとめられますよ、おもちゃのパチンコでね。 ヘンリー、もう少し左に立ったほうがいい。 ターニロフは門のそば、スティルウェルは左の隅、マンガンがその次、それからエディの順だ。 わたしは向こうの樫の木立のほうに立つよ。 一緒に行きましょうか、キャロライン」

 歩き出すとき、従姉妹は彼の腕を取り、強く握った。

 「エヴェラード、お見事だったわ。 あなたはちっとも取り乱さなかった。 単純で、賢明な策だったわね、全部を打ち明けてしまうのは。 ほとんど淡々と喋っていたじゃない。 他人の話でもしているんじゃないかと思ったくらいよ」

 主人は謎めいた微笑みを浮かべた。

 「そんな印象をお持ちになったとは、不思議だな。 実は喋りながらわたしも同じように思ったのです。 ちょっとしゃがんでもらってもいいですか。 合図の笛を鳴らしますから」

第十六章

 偉観を誇るドミニー邸の食事室といえども、さすがにその晩は、マホガニー製の大テーブルをぎりぎりいっぱいまで広げなければならなかった。 最近閣僚に指名されたジェラルド・ワトソン判事を含む泊まりがけの客のほかに、近隣から州統監や名士たちを数名招待していたのだ。 キャロラインは州統監とターニロフに挟まれ、女主人の役をそつなくこなしていたが、身を入れてそうしていたわけではない。 彼女の目がテーブルの反対側から長くそらされることはあまりなかった。 そこにはステファニーがドミニーの左手に座っていたのである。 金髪を美しく結いあげ、豪華な宝石を身につけ、ものうく優雅に振る舞うさまは、ドゥ・ラ・ペ通りの宝飾品を身にまとった近代ハンガリーの王女というより、昔のベニスの宮廷の麗人のように見えた。 会話は主に地元の話題をめぐり、当日の狩りのこととか、それに類した事柄が中心になった。 公爵が得意の話題をまくし立てることができたのは、ようやく食事も終わりに近づいた頃だった。

 「エヴェラード」彼は主人に向かって少しだけ声を張りあげた。 「君はここの借地人に国民兵役の理念を教えこんでいるんだろうね」

 ドミニーはやや曖昧に返事をした。

 「このあたりではあまり快く受け入れられないでしょうね。 農村の人々はなかなか頑固なものだから」

 「連中の考え方を変えてやるのは地主としての責務だよ」彼は鼻眼鏡越しに好戦的な視線をシーマンに向けた。 彼はテーブルの反対側に座っていた。 「いいかね、遠からずドイツと戦争になり、自分たちが何も準備していないことに気づいてあっと驚くのは間違いないんだ」

 彼の隣に座っていた州統監の妻、マデレー夫人はいささか驚いたようだった。 恐らく彼女は、その場でただ一人、公爵の奇癖を知らない人間だったのだろう。

 「本気でそう考えていらっしゃるの?ドイツ人はとても文明的ですわ。 平和を愛し、家庭とかを大切にしていると思いますけど」

 公爵はうめいた。 彼はテーブルの向こうに目を走らせ、ターニロフ王子には聞こえてないことを確認した。

 「マデレー夫人、ドイツはイギリスのように統治されていないのです。 戦争になったらそんなものは、あの国の人間にとってどうでもいいんですよ。 そりゃ、あなたみたいにびっくりする人も大勢いるでしょう。 でも戦争を仕掛けてくるのに変わりはない」

 それまで必死に自分を押さえ、黙っていたシーマンが公爵の挑戦を受けて立った。

 彼はテーブルの向こうから一礼した。 「失礼ながら、奥様、公爵が危惧なさるドイツとの戦争は決して起こらないと断言できます。 根拠のないことを言っているのではありません。 わたしはイギリスに帰化しましたが、生まれはドイツだからです。 ロンドンにもベルリンにも同じくらい親友がいます。 最近、アフリカに行っていて、そこでこちらのご主人と知り合いになったのですが、それ以外の時はほとんど二つの首都のあいだを行ったり来たりしていました。 また独英両市民の友好を促進する会の幹事もやっております」

 「くだらん!ドイツ人は友好など望んではおらん。 望んでいるとわれわれに信じこませようとしているだけだ」

 シーマンはちょっと困った顔をした。 しかし彼は一歩も譲らなかった。

 「公爵とわたしはこの件に関して昔から敵同士なんですよ」

 「その通り。 君は正直な男かもしれないが、シーマン、この件に関しては無知蒙昧の輩だ」

 「たぶん二人ともそれぞれに正しいんでしょうね」とドミニーが口を挟んだ。 いかにも育ちのいい主人が、大きく意見の食い違う二人を調停するため、いつものように割って入ったという感じだった。 「ドイツに参戦派と非参戦派がいることは論を待たないでしょう。 経済成長を第一に考える政治家もいれば、ひたすら征服をめざして軍事的野望に燃える連中もいますよ。 わが国ではその両者のバランスを取るのがとても難しい」

 シーマンは感謝の笑みを主人に送った。

 彼はもったいぶるように言った。 「ドイツの高官のなかにも友人がいますが、彼らはイギリスでやっているわたしの活動をいつも応援してくれます。 皇帝ご自身も、イギリスに友好の機運を高めるわたしの努力を祝福してくださいました。 失礼ですが、公爵、あなたがわたしの国に対していつもまき散らしている無分別で根も葉もないご主張、それこそがいっそうの相互理解を妨げているものなのです」

 「わたしにはわたしの見解がある。 それはもう確信となっている。 これからもずっと弁舌の限りを尽くしてそのことを話すつもりだ」公爵は噛みつくように言った。

 この会話の一部は大使にも聞こえていた。 彼は座ったまま身体を少し前に乗り出した。

 「まず個人的見解を申しあげましょう。 われわれ両国が戦争をするのはまさしく民族的自殺行為です。 筆舌に尽くしがたい、おぞましい犯罪である、これがわたしが熟慮の末にたどり着いた意見です。 次にこちらでわたしが代表している国家の立場から、大使の資格において、こうつけ加えましょう。 わたしがここに来たのは、平和を築くという、偽りのない、純粋な使命を果すためです。 ここでのわたしの仕事は、平和を守り、平和を確かなものにすることです」

 キャロラインは夫に警告するようなまなざしを向けた。

 「腹蔵なくおっしゃっていただいてありがとうございます、王子。 公爵は趣味が嵩じて、私的な晩餐の席が演壇とは違うことをときどき忘れてしまうんですよ。 もっと本当に面白いことについて議論しましょうよ」

 「これより重要な問題なんかありはせんぞ」公爵はそう断言したが、あきらめて黙ってしまった。

 大使が提案した。 「ご主人のキジ撃ちの腕前について話しましょうよ」

 シーマンは右隣の女性に言った。 「よろしければ、みなさんイギリスの女性が、ドイツの主婦よりもずっと自由に振る舞っていらっしゃる理由など、教えていただけませんか」

 ステファニーが微かに震える声で主人にささやいた。 「あとであなたをびっくりさせるものを渡すわ」

 ドミニーの客は晩餐のあと、いつの間にかそれぞれ自分が好む気晴らしへと移っていった。 ブリッジのテーブルが二つ出され、ターニロフと閣僚はビリヤードに興じた。 シーマンは居間の古いグランドピアノにむかい、誰もが唖然とする指の運びで黄色い鍵盤から風変わりな曲を奏でて見せた。 ステファニーと主人はゆっくりと広間と絵画陳列室を抜けていった。 しばらくはドミニーが同伴者の注意をあれこれの絵に向けさせ、それをめぐって話が交わされていた。 しかし他の客に聞かれるおそれのないところへ来ると、ステファニーの指は相手の腕を強く握り締めた。

 「二人きりでお話したいわ。 誰にも立ち聞きされずに」

 ドミニーはためらうように後ろを振り返った。

 「お客さんは遊びに夢中よ。 それにわたしも客の一人なんですからね。 ちゃんとお相手していただかなければ」彼女は少しいらいらして言った。

 ドミニーは書斎のドアを開け、電灯を二つつけた。 彼女は薪が燃える暖炉のほうへ進み、室内の暗い陰に視線を走らせた。 そして再び主人の顔を見つめた。

 「一回、灯りを全部つけてちょうだい。 他に誰もいないことを確かめたいの」

 ドミニーは命令に従った。 本でいっぱいの棚が並ぶいちばん奥の角が照らし出された。 彼女は頷いた。

 「この灯り以外は全部消していいわ。 安楽椅子を持ってきてちょうだい。 いいえ、この長椅子にする。 横にお座りなさいな」

 「真面目な話ですか?」彼は不安そうに尋ねた。

 「真面目だけれど、素晴らしい話よ。 聞いてくれる、レオポルド?」彼女は目をあげた。

 彼女は長椅子の端で身体を半ば丸めるようにし、長い指で軽く頭を支え、茶色い目で相手をじっと見つめた。 真剣だが優しい気持ちがにじみ出していた。 ドミニーの顔は彼女の目の訴えを見て、さらに強ばったように思えた。

 「レオポルド、わたしは数週間前にイギリスを離れたの。 獣みたいなあなたに二度と会わない決心をして。 出ていく前に、あなたの化けの皮をひんむいてやろうかとさえ思ったわ。 ペテン師の食わせ者だって。 ドイツなんてわたしには意味がない。 人間的な義務を考慮しない愛国主義にどうして共鳴できるものですか。 故郷に帰って、ロンドンには戻らないつもりだった。 わたしの心は傷つき、とても惨めだった」

 彼女は言葉を切ったが、相手は何の反応も示さなかった。 しかし彼女がいつまでも黙ったままなので、何か言わざるを得なくなった。

 「王女、あなたはここにいない人間に向かって話しかけているのですよ。 わたしの名前はもうレオポルドではないのです」

 彼女は優しさと苦々しさとが奇妙に入りまじった声で笑った。

 「心配だわ。 新しい人間になって、名前だけじゃなく、人間らしさまでなくしてしまったんじゃないかしら。 話をつづけますけど、都合があってわたしはベルリンに何日か滞在し、そのためポツダムの王宮に出向かなければならない羽目になったの。 そこで驚くようなことを聞いたわ。 ウィルヘルムがあなたのことを話してくれたの。 心の傷はまだ癒されていないけど、でも彼はわたしに理解させてくれた」

 「こんな話をするのはまずいんじゃありませんか?」彼はうろたえたように言った。

 彼女はその言葉を無視した。

 「わたしはもう一度好意的に王宮に迎え入れられました。 そのことはあなたに感謝します。 ウィルヘルムは先頃あなたの訪問を受けてとても感心していたのよ。 それとこっちの人間になりすました手口に。 アフリカでの仕事も口を極めて賞めていた。 追放者として送りこまれただけに、なおさら評価しているようね。 皇帝はわたしにこうお尋ねになったわ、レオポルド」彼女は声を落とした。 「あなたに対するわたしの気持ちは変わっていないのかと」

 ドミニーの顔は相変わらず強ばっていた。 彼はあくまで彼女と目を合わせようとしなかった。

 「わたしは本当のことを言いました。 どんなふうにすべてがはじまったのか。 そしてわたしたちの関係はわたしが死ぬまで続かなければならないことも。 決闘の話もしました。 介添人が説明してくれたことを話したわ。 手首が返り、コンラッドがものすごい勢いで突っこみ、文字通りあなたの剣先に飛びこんでいったこと。 ウィルヘルムは理解し、許してくれた。 そしてあなた宛にこの手紙を書いてくれたの」

 彼女はポケットから小さな灰色の封筒を取り出した。 封印にはホーエンツォレルン王家の紋章が押されていた。 彼女はそれを手渡した。

 「レオポルド、読んでみて」

 彼は気乗りのしない指で手紙を受け取ったものの、頭を横に振った。

 「宛名をご覧なさい」

 彼は言われたように見た。 のたくるような、奇妙な筆跡で、「サー・エヴェラード男爵へ」とあった。 彼は不承不承に封を切り、手紙を取り出した。 たった二週間前の日付になっていた。 前置きも結びもなく、ただ厚い便せんに二つの文が記されていた。

 貴殿がアイダーシュトルム家ステファニー王女に結婚を申し出ることは、予が望むところである。 二人の婚礼には教会からは祝福が、王宮からは承認が与えられるだろう。

             ウィルヘルム

 ドミニーは口がきけなくなったように座っていた。 彼女は彼を見ていた。

 「これでもまだ抵抗する気?」どことなくうらみがましい、皮肉のこもった質問だった。 「レオポルド、まさかわたしを愛していないというんじゃないでしょうね。 あなたはいろいろな面でとても変わってしまった。 もう愛情はなくなったの?」

 彼の声は自分の耳にすらがさついて不自然に聞こえた。 その言葉には道化者の品のない残忍さがみなぎっていた。

 「現実的に無理だということです。 考えても見てください!わたしはここの人にそう呼ばれている人間、この先何ヶ月もその振りをしなければならない人間、エドワード・ドミニー、この家の主人、ドミニー夫人の夫なのですよ」

 「あなたの評判の奥様はどこにいるの?」ステファニーは顔をしかめて訊いた。

 「ここ数ヶ月、療養所にいます。 もう回復したも同然です。 退院するまでそれほど長くはかからないでしょう」

 「退院させないよう求めるべきだわ」

 「そんなことをしたら、どんな疑いを招くか考えてみてください」ドミニーは強く訴えた。 「それに他の人はみんなわたしを妻帯者だと思っている。 どうして皇帝の命令をいいことにあなたと結婚などできるんです?」

 彼女は不思議そうに彼を見た。

 「命令に従わないというの?あなたがなりすました冷たいイギリス人のようにそこに座っている気なの?わたしの手に涙をこぼしたというのに。 その唇で――」

 「あなたが話しているのは死んだ人間のことです」ドミニーが相手を遮った。 「彼はこの大計画が成功して生き返るまでこの世にいないのです。 そのときまであなたの愛人は沈黙を守らねばならないのです」

 彼女は怒りを爆発させた。 支離滅裂なことを荒々しく口走り、彼の顔を自分の顔に引き寄せた。 次の瞬間、彼に打ちかかろうとするかのように拳を握り締めた。 彼女はわっとばかりに泣き崩れた。

 「そんなに――そんなにつらくあたることはないでしょう、レオポルド。 ああ!あなたの任務は大切だわ。 最後までやり通さなければならない。 でも皇帝は許可してくれたのよ。 何か方法があるはずだわ。 秘密裏に結婚することができるはず。 そうでなくても、せめて口づけ、抱擁くらいは!わたしの心はあなたの愛に飢えているのよ、レオポルド」

 彼は立ちあがった。 彼女の腕が首にしがみついたままだった。 その唇は激しく接吻を求め、目の光りは彼の目に食い入った。

 「許してください、ステファニー。 そのときが来るまで、たった一度のキスでも名誉を汚すことになるのです。 その日まで待ってください。 あなたもよくご存じのその日まで」

 彼女は腕をほどき、小さく身震いした。 傷ついた目はいぶかしそうに彼を見た。

 「レオポルド、何があなたをこんなふうに変えてしまったの?何が情熱を干上がらせてしまったの?あなたは別人みたい。 顔をよく見せてちょうだい」

 彼女は相手の肩に手をかけ、電灯の下へ引っぱっていき、顔を覗きこんだ。 暖炉の薪が音を立ててはぜた。 閉ざされたドアの外からは、話し声と笑い声がかすかな波音のように聞こえてきた。 彼女の呼吸は乱れ、目は相手の顔から仮面を引き剥がそうとしていた。

 「他の人に心移りしたのかしら。 アフリカに女はいなかった。 噂の奥さん、ロザモンド・ドミニーは美しくて、あなたはとても大切しているそうね。 あなたが戻ってから健康も回復して、あなたのことを慕っているとか。 まさか――」

 「それは違います。 そんなことはしません」

 「じゃ、何を見ているの?言ってご覧なさい」

 彼女の目は部屋を出ていった影のごとき存在を追った。 彼は再びほっそりした、少女にも似た姿を見たのだった。 訴えるような黒い瞳には愛情を求める光りが宿り、唇は震えている。 怯えた子供が彼に向かい、強い男に向かい、保護を求めて甘く訴えている。 彼は柔らかい指が手にからみつくのを感じ、長い歳月によって無慈悲に押さえつけられていた感情が奇跡のように蘇る甘い陶酔感を味わった。 そばにいる女の情熱が急に安っぽい、わざとらしいものに思え、彼を求める彼女の唇が何かおぞましいものに見えた。 ドアに背を向けていた彼は、女の口から怒りのこもった失望の叫びが発せられるのを聞き、ようやく歓迎すべき侵入者のあったことを知った。 振り返ると入り口にシーマンが立っていた。 まさに天の助けだった。

 「邪魔してまことに申し訳ない、サー・エヴェラード」丸い、にこやかな顔は本当にすまなそうにしていた。 「急いでお知らせすべきだと思ってね。 ちょっとよろしいですか」

 王女は一言も挨拶せず、後ろを振り返ることもなく、彼らのわきを通り過ぎた。 侮辱された女王のような物腰だった。 恭しく道を譲ったシーマンの顔にひときわ深い心配の色が浮かんだ。

 「何があったんだい?」ドミニーが訊いた。

 「ドミニー夫人が戻ってきたんだ」彼は落ち着いて答えた。

第十七章

 これほどいたましいものは見たことがないとドミニーは思った。 それは広間の片隅、暖炉の前に立つ女が奇妙に疲れた眼から彼に注ぐ、半ば希望にあふれ半ば不安にさいなまれた真剣なまなざしだった。 彼女の横には快活で人なつっこそうな制服姿の看護婦がいた。 さらにその後ろには宝石箱を抱えた小間使いがいた。 黒いベールをかきあげたロザモンドは片足を炉格子にかけて立っていた。 ドミニーが腕を伸ばして急ぎ足に近づいてくると、彼女は表情をがらりと変えた。

 「よく帰ってきたね。 うれしいよ」

 「うれしい?」彼女は喜びのあまり声がつまった。 「本気で言っているの?」

 気持ちを制している様子は微塵も見せず、彼は自分に差し向けられた唇に触れた。 世話を任された見知らぬ子供にでもするような、優しく、敬意に満ちたキスだった。

 「もちろん本気だとも」彼は朗らかに答えた。 「しかし連絡もなしに帰ってくるなんて、どうしたんだい?何があったんだい、看護婦さん?」

 「奥様は二晩ほどお眠りになっていないのです。 お身体の具合がとてもよろしかったので、かえって病気がぶり返さないかと、わたしたちは心配しました。 ですが婦長のクールソンが、奥様のお望み通り、おうちに帰ったほうがいいとだろう判断したのです。 ご主人様に電報をさしあげればよかったのですが、残念なことにハリソン先生に出してしまいまして。 先生はお出かけ中のようですね」

 ロザモンドはドミニーの腕にしがみつきながら訊いた。 「まずかったかしら?わたし、急に戻らなければならないような気がしたの。 もう一度あなたに会いたくなったのよ。 ファルマスではみんな優しく親切にしてくれたわ。 とくにこちらのアリス看護婦は。 でもやっぱりうちとは違うもの。 あなたは怒ってないでしょう?ここに泊まっている人は気にしないわよね?」

 「もちろんだよ」彼は上機嫌で請け合った。 「彼らは君のお客さんだよ。 明日は全員と友達になってもらわないと」

 「とってもきれいな人がいたわ」彼女はおどおどと言った。 「金髪の方で、ついさっきすれ違ったの。 すごく怒っていたみたい。 わたしが帰ってきたからじゃないでしょうね」

 「そんなことあるものか。 君にはここにいる権利がある。 他の誰よりも当然の権利が」

 彼女は長々と満足のため息をついた。

 「ああ、素敵だわ!あなた――エヴェラードって呼んでもいいのよね?――あなたも元気そうね。 わたしが願っていたとおりだわ。 二階に連れて行ってくれる?看護婦さん、ついていらして」

 彼女は彼の腕に体重をかけて寄りかかり、途中でわざとぐずぐずしさえした。 しかし自分の部屋に近づくと、足取りは軽くなった。 とうとう廊下にたどり着いたとき、彼女は腕を放して、子供のようにはしゃぎながら部屋のドアに向かって駆けだした。 ドアを開け放ったとき、失望の声がもれた。 数人の女中たちがなかなか火のつかない薪を相手に悪戦苦闘したり、家具の覆いを取り払っていたのだ。 もうもうと煙のこもるその部屋は使えるような状態ではなかった。

 「まあ、がっかりだわ。 エヴェラード、どうしましょう?」

 彼は自分の部屋のドアを開けた。 暖炉の火はあかあかと燃え、部屋は暖かく、心地よかった。 彼女は小さく喜びの声をあげると、暖炉の前の敷物の端に置かれた大きなソファに飛びこんだ。

 「あなたがお休みになるときまでここにいてもいいでしょう、エヴェラード?戻ってきたら、ここに座ってお話してちょうだいね、誰がきているのか、どんな人たちなのか。 わたしがどんなによくなったか分からないでしょうね。 昔弾いていた音楽をみんな思い出したのよ。 ブリッジの腕前も今まで以上にあがったって言われたわ。 おもてなしのお手伝いなら喜んでするわよ」

 女中が女主人のブーツの紐をゆっくりと解いていた。 ロザモンドは足を持ちあげ、彼に触れさせた。

 「冷たいでしょう。 こすって暖めて。 夕食はここで看護婦と取るわ。 女中さん、誰か一人下に行って用意をさせてちょうだい。 ずいぶん新しいものを買い入れたのね、エヴェラード!」彼女は部屋のなかを見回した。 「あら、わたしの絵がテーブルの上に!客間に置いてあったのに」彼女の目が急に嬉しそうに光った。 「あなたったら!どうしてあれを持ってきたの?」

 「ここに置きたかったんだよ」

 「わたし、もうあの絵みたいにきれいじゃないわ」彼女は切なそうにため息をもらした。

 「そんなことはないさ。 君は少しも変わってない。 二、三ヶ月したらもっときれいになる」

 彼女はほとんどはにかんだような、いたいけな視線を彼に送った。 しかしそこには毅然とした光もあった。

 「あなたのご希望通りになってあげる。 あなたにはわたしを好きなように変える力があると思うわ。 どうか優しくしてちょうだい」彼女は両腕を彼のほうに伸ばした。 「病気が長かったせいだと思うけど、自分がすごく頼りなく感じられるの。 わたし、あなたのたくましさが好き。 あなたに守ってもらいたい。 あなたの手もずいぶん冷たいのね」彼女は不安そうに言い足した。 「それに顔色も悪いわ。 病気じゃないでしょうね、エヴェラード?」

 「何ともないよ」彼は声に動揺をあらわすまいと必死だった。 「ゆっくり話せなくてわるいんだが、お客さんが来ているからね。 ちょっと大事なお客さんなんだ。 あしたはみんなと挨拶しなければならないよ」

 「そしてあなたのお手伝いをするのね」

 「そう、手伝ってほしい」

 ドミニーは部屋を抜け出し、よろめくように廊下を歩いた。 いちばん上の大きな四角い踊り場まで来ると、彼は立ち止まって、軽く目を閉じ、数秒のあいだ立ちつくしていた。 下からは楽しそうな甲高い声や、遠くで鳴っているピアノの音や、ビリヤードの玉のぶつかる音が聞こえた。 彼は気持ちが落ち着くのを待った。 階段を降りようとしたとき、シーマンがあがってくるのが見えた。 相手の押しとどめるような仕草に、彼はシーマンがあがってくるのを待った。 それから相手の腕を取り、陰になった角の大きな長椅子に導いた。 シーマンにはいつもの陽気さがなかった。 唇に人当たりのいい微笑みは漂っていなかった。

 「ドミニー夫人はどこにいる?」

 「わたしの部屋だよ。 彼女の部屋の用意ができるのを待っている」

 シーマンの態度はいつになく重々しかった。

 「よく分っているだろうが、わたしは君と重要な任務についているにもかかわらず、じつにいい加減な人間だ。 おまけに、なんと、悪い癖が一つある。 任務を離れているときのわたしは――女に目がないのさ」

 「それで?」

 「君の立場は確かに微妙で厄介なものだ。 ドミニー夫人は君を愛しているらしい。 二人のあいだにはいろいろな問題があったが、にもかかわらず、ドミニー夫人は間違いなく夫に対する愛を失っていない。 君を怒らせるつもりはないが、しかし彼女の気持ちを助長させることは厳に慎んでくれたまえ」

 ドミニーの目が光った。 ほんの一瞬、怒りの言葉が唇の上に震えたように見えた。 しかしシーマンの態度にはひどく思いやりがこもっていて、少しも不快感を与えなかった。

 「他の女なら、君が今の立場を利用して何をしようと、わたしは肩をすくめて傍観している。 しかしたわけ者のイギリス人が妻にした女性、いや、未亡人は、心を病んでいる。 いまだに精神に異常をきたしている。 きみに深い思いを抱いているのと同時にね。 さっき君と廊下を歩いているのを見た。 彼女は冷たい雨が長くつづいたあと太陽を求める花のように君に愛を求めている。 フォン・ラガシュタイン、君は名誉を尊ぶ男だ。 難しいかもしれないが、この場はなんとかうまく切り抜けてくれ」

 ドミニーは心を乱す最初の波からすでに回復していた。 相手の言葉に少しも腹を立てていなかった。 それどころか今まで以上に思いやりをこめて相手を見ている自分に気がついた。

 「君はわたしが板挟みになっていることを理解してくれているんだね。 たしかに悩ましいことこの上ない。 もう一つ、板挟みになっていることがあるんだ。 アイダーシュトルム王女が皇帝から署名入りの手紙を持ってきた。 彼女との結婚を命令する手紙だ」

 シーマンは苦り切った顔で言った。 「深刻な側面を無視して、上っ面だけ見れば、こいつはパレロアイヤルの笑劇にうってつけの状況だな。 しかしひとまず君は下に行かなければならんね。 わたしは言いたくてうずうずしていたことを言ってしまったし」

 彼らはちょうどよいときに下に降りた。 近隣から招いた客が帰宅の準備をしていたのだ。 ドミニーは別れの挨拶に間に合った。 彼らは口をそろえて、ドミニー夫人によろしく伝えてほしいと言った。 またすぐ夫人を訪ねてまいります、健康を回復してお戻りになったと聞き喜んでおります。 最後の車が行ってしまったとき、キャロラインが主人の腕を取って、奥の間へ引きこみ、大きな薪が燃える暖炉わきの椅子に座らせた。

 「エヴェラード、あなたって本当にひどい人」

 「どうしてですか?」

 「わたしたち女性を深く愛してくれるのは嬉しいんだけど、みんなを相手にするっていうのは行き過ぎじゃないかしら。 あなたがイギリスに戻ってきて、起るはずのないことが起きたわ。 つまり、奥さんが正気に戻ったってこと。 気性の激しいハンガリーの王女様は、あなたを追いかけてここまで来たというのに、今さっき、あなたが奥さんを迎えにしばらくそばを離れたものだから、すっかりおかんむりの体で部屋に入ってしまった。 それからわたしとの悲しいささやかなアバンチュール。 ああ、わたし、袖にされ、捨てられちゃったのね!エヴェラード、あなたって本当に悪い人」

 「ひどい言われようだなあ。 でも波瀾万丈の夜のあと、こうしていられるのはほっとしますね。 ゼウスみたいに稲妻を投げつけてこない人が話し相手なんだから。 ウイスキー・ソーダを飲んでもかまいませんか?」

 「わたしにも一杯お願い。 飲んだら、予定と違って、話の調子が全然狂っちゃうかもしれないけど、喉が渇いたわ。 それからトルコ煙草もひとつかみ。 何も気にせず、わたしのお相手をしてくれたらいいのよ。 あなたのいちばん大切なお客さまは、大好きな仕事を見つけたようよ。 ビリヤードルームの隅でヘンリーをつかまえて、あの人の信念を彼に植えつけようとしているわ。 ドイツはイギリスに対してごく平和的な意図しか抱いていない、ですって。 判事様はお休みになり、エディ・ペラムはミスタ・マンガンとビリヤード。 みんな楽しくやっているわ。 あなたはわたしの傷ついた虚栄心をなぐさめることに専念してくれたらいいの。 もちろん失恋に痛む胸も忘れないで」

 「いつもからかうんですからねえ」

 「いつもじゃないわ」彼女はふと目をあげ、静かに言った。 「あの恐ろしい悲劇が起こる前、あなたが最後にダンラッターに泊まっていたとき、あのときはからかったりしなかった」

 「あのときのあなたは、今と違って、優しさそのものでした」

 彼女は思い出にふけるようにため息をついた。

 「素晴らしい一ヶ月だったわ。 あのとき、初めてあなたのなかに、今のあなたになる可能性を見たんだと思う」

 「つまりわたしは変わったということですか?」

 彼女は相手をじっと見つめた。

 「ときどき信じられなくなる、あなたが同じ人だなんて」

 彼は顔を背けてウイスキー・ソーダに手を伸ばした。

 「好奇心から訊くんですけど、その理由は何ですか?」

 「まず第一に、言葉遣いが堅苦しくなった。 昔はくだけた言い方もときどきしていたけど」

 「他には?」

 「昔は語末のgをはしょっていたわ」

 「あきれた癖ですね。 アフリカの奥地で朗読の練習をして直したんですよ。 それから何があります?」

 「動作がしゃちほこばっている。 ときどき軍服を着ていないことに気づいてびっくりしているみたい」

 「それはみんな些細なことですね。 大きな変化はありますか?」

 「大きな変化はとてもいい変化よ。 以前はウイスキー・ソーダを四六時中あおって、晩餐の時はワインをがぶ飲みしていたわ。 今はほとんど飲まないのね。 如才なく主人役をこなすのに」

 「ご婦人方がいないときに、どれだけポートワインを飲んでいるか見せたいですね。 他にもいい変化がありますか?」

 「あなたのいいところがみんな表に出てきたみたい。 帰国して過去を清算しようとしているのは立派というしかないわ。 ねえ、あの男の死体が発見されたら、あなたは殺人で起訴されるの?」

 彼は頭を振った。 「そうはならないでしょうね、キャロライン」

 「エヴェラード」

 「何です?」

 「ロジャー・アンサンクを殺したの?」

 燃えている薪の一部が暖炉のなかで崩れた。 そして沈黙が訪れた。 隣の部屋から玉突きの音が聞こえてきた。 ドミニーはかがんで、小さな火箸を使い、燃えている薪をかき集めた。 彼は突然手をつかまれた。

 「エヴェラード。 ごめんなさい。 今晩は疲れているのに、わたしの相手をしてくれたんでしょう?同情してあげるべきなのに、わたしったらとんでもないことを訊いちゃった。 どうか忘れてね。 昔みたいに話してちょうだい。 ロザモンドのお帰りのこととか。 本当に治ったと思う?」

 「ちょっと会っただけなのですが、間違いなく回復に向かっているようです。 毎週、療養所からくる報告で、病状がぐんとよくなったことは知っていました。 身体はひどく弱っていて、目はまだ落ち着きがないんですが、話すことは首尾一貫しています」

 「あの嫌らしい女はどうなったの?」

 「ミセス・アンサンクには年金を与えて辞めてもらいました。 驚いたことに、今でも村に住んでいるそうです」

 「幽霊のことは?」

 「ロザモンドがいないときは叫び声一つたてません」

 「もう一つ訊きたいことがあるの」キャロラインは言いにくそうに話し出した。

 その「もう一つのこと」は永遠に口にされることはなかった。 奇妙な、劇的といってもいい邪魔が入ったのである。 広間の静寂を破って、正面ドアの巨大なベルが鳴り響いた。 ドミニーはぎょっとして時計を見た。

 「真夜中じゃないか。 いったいこんな時間に誰が来たんだろう」

 本能的に二人は立ちあがった。 男の召使いが大きな鍵を回し、かんぬきを引き抜いて、苦労しながらドアを開けた。 雪と冷たい風が玄関に吹きこみ、それにつづいて頭からつま先まで雪に覆われ、髪の毛を風に乱され、吹雪との闘いで誰とも見分けのつかなくなった男の姿があらわれた。

 「ハリソン先生!」ドミニーは急いで一歩前に踏み出した。 「こんな時間にどうなさったんです?」

 医師はしばらく杖に寄りかかっていた。 息が切れ、溶けた雪が服からオーク材の床にしたたっていた。 彼らはコートを脱がせ、火の方に彼を誘った。

 「こんな時間に申し訳ない」彼はドミニーが持たせてくれたタンブラーを握った。 「ついさっきドミニー夫人の電報を受け取ったんだ。 君に会わなければならなかったんだよ――すぐに」

第十八章

 医師はいつもの傍若無人な口ぶりで、この時ならぬ訪問が内密の話をするためのものだと言った。 キャロラインはさっそく席をはずし、二人の男は大広間に取り残された。 ビリヤードルームと客間の灯りは消えていた。 数人の召使いを除いて、屋敷のなかの人間はみな部屋に引っこんでいた。

 「サー・エヴェラード。 今回のドミニー夫人のお帰りにはまったく驚いた。 明日の朝、君と話をするつもりでいたんだが」

 「先生の報告を今か今かと待っていたんですよ」

 「いい報告だよ」自信にあふれた返答だった。 「知らせを受けていたら、こんなに急に療養所を離れることは許さなかっただろうが、しかしあそこに留め置く理由もない。 ドミニー夫人は精神的にも肉体的にも申し分のない健康状態だ。 ただ、一つだけ妄想を抱いているが」

 「その妄想というのは?」

 「君が夫じゃないと思っているんだよ」

 ドミニーはしばらく黙っていた。 それからどことなくわざとらしい笑い声をあげた。

 「まったくの正気といえるのでしょうか、周りのすべてから現実性を奪うような妄想に取り憑かれているのに」

 「ドミニー夫人は完全に正気だ」医師はぶっきらぼうに言った。 「その妄想を追い払うことができるかどうかは、君次第だ」

 「何か助言はありませんか?」

 「あるとも。 率直に言うよ。 まず、君は幾つかの点で目に見えて変貌した。 それがドミニー夫人の妄想を誘発したとしても無理はない。 例えば君がイギリスに戻ってきて八ヶ月あまりが経つが、そのあいだ君はまったく人が変わったように振るまいつづけている。 悪い癖をことごとく克服したかのようだ。 紳士らしく適度にお酒を飲み、荒っぽい気性を押さえ、自分の人柄を唯一の武器に名士や実力者たちを自分のまわりに集めている。 十年以上も前にイギリスをすたこら逃げ出したエヴェラード・ドミニーからは考えられんことだ」

 「妻の病状を弁護なさっているみたいですね」

 「奥様に弁護なんか必要ない」医者はぞんざいに返事した。 「彼女は我慢強い、貞節な女性だ。 残酷な病に苦しんでいるが、それは、うんと思いやりのある言い方をすれば、君のいい加減さ、無思慮によって引き起こされたものだ。 善良な女性はみんなそうだが、寛容は彼女の第二の天性だ。 今、彼女は人生において自分が収まるべき場所に収まりたいと願っているのだ」

 「しかし妄想があるかぎり、つまり、わたしが夫ではないのだと真剣に思っている限り、そんなことは無理でしょう?」

 「それこそ君とわたしが直面しなければならない問題だよ」医師は厳しく言った。 「まだ妄想に取り憑かれている奥様が、君のところに喜んで戻ってきたという事実は、わたしには説明もつかないし理解もできない。 しかし今晩ここに来たのは、君に一つの責任を与えるためなのだ。 完全な回復に至るには、奥様にはあと一歩が必要なのだということを忘れてはいけない。 その一歩が踏み出されるまで、君には恐ろしく困難な、しかし避けられない務めがある」

 ドミニーはしばらく歯をきつく食いしばっていた。 膝に手を当てて、身体を乗り出したとき、医師の鋭い灰色の目が毛むくじゃらの眉の下で光った。

 ドミニーは静かに言った。 「ということは、妄想が消えない限り、帰国以来つづいているわたしたちの状況はまったく変わらないということですね」

 「そうだ。 ややこしいことになったが、われわれは、というより、君はそれに対応していかなければならない。 他の妄想はことごとく消えてなくなった。 それは約束できる。 ロジャー・アンサンクの幽霊や、夜中に聞こえる叫び声や、彼の謎に満ちた死のこと。 それらは彼女にとって痛ましい過去の一部であるにすぎない。 君の命を奪おうとしたこともちゃんと意識しており、ひどく後悔している。 しかし今度の症状こそ本当に危険なのだ。 君に対して情熱的な愛情を捧げているようだが、その実、君を夫と信じてはいないのだからな」

 ドミニーは熱気を避けるように、椅子を暖炉から遠ざけた。 彼の目は医師の目に釘づけになっているようだった。

 医師は重々しく話をつづけた。 「どうしてそんな妄想が生じたのか、分からない。 しかしわたしの義務として警告しておくよ、サー・エヴェラード。 君に愛情を注ぐことで彼女は大いに回復に向かうだろう。 ドミニー夫人はもともと非常に愛情深い女性だ。 肉体的健康を取り戻し、人間的な思いやりを十分に受けたことが、おそらくそうした性向を目覚めさせたのだろう。 しかも彼女はますます君が好きになりつつあるし、君は夫として立派に振る舞っている。 彼女の性向がはぐくまれるのはまったく当然だよ。 いいかね、サー・エヴェラード、君の立場はとてつもなく困難な立場だ。 しかし困難ではあっても、とにかくやらなければならない義務がある。 できるだけ奥さんの愛情をはぐくみつづけたまえ。 しかし妄想が残っているあいだ、その愛情はある一定の限度を超えてはならない。 ドミニー夫人は善良な優しい女性だ。 ある朝彼女が目を覚まし、妄想は残ったまま、しかも良心のとがめに苦しむというようなことになれば、今まで何ヶ月もわれわれが苦労してやってきたことは、みんな無駄になるかもしれない。 彼女自身、精神病院で一生を終える可能性も大いにある」

 「先生、ご忠告の一言一言が身に染みました。 任せてください」ドミニーは力強くいった。

 医師が彼を見た。

 「信じているよ」そう言って医師は安堵のため息をついた。 「それを聞いてうれしいよ」

 「もう一つだけ教えてください」ドミニーは間をおいて言った。 「もしもこの妄想がなくなったとしたらどうなりますか。 急にわたしが夫であると確信したら?」

 医師の答えに熱がこもった。 「その場合はまったく逆を行うことになるだろう。 彼女が夫に捧げる愛情を押しとどめないことが大切だ。 逆の場合はそれを受け入れないことが大切なようにね。 彼女が今の心の状態を維持したまま、君が法的に結ばれた正当な夫であると自覚したとしたら、そのときこそ彼女の新しい人生のはじまりだよ」

 どちらもは語るべきことはすべて語ったという気がした。 短い沈黙のあと、医師は最後の一杯を飲みほし、パイプに煙草を詰めて、立ちあがった。 ドミニーが車庫から出すように命じてあった車は、もうドアの前に停まっていた。 奇妙なことに、彼らはどちらも今まで話していたことに、間接的にも触れたくない気分だった。

 「送ってくれるとはありがたい」医師がしわがれた声で言った。 「家を出たときはよかったが、沼地を歩くのは憂鬱だった」

 「来ていただいてとても感謝しています」ドミニーの言葉には明らかに誠意がこもっていた。 「一両日中に患者を診に来ていただけますね?」

 「この屋敷に泊まっている連中を追っ払ってくれたら、すぐに来るよ。 おやすみ!」

 二人は別れた。 なぜだか分からないが、ドミニーはこのぎこちない別れの挨拶で、出遭ったときから彼らのあいだにわだかまっていた反感が葬り去られたような気がした。 一人になった彼は薄明かりの灯る大広間をしばらくうろつき回った。 奇妙にそわそわした気分が彼に取りついたようだった。 消えかけている火のそばにしばらく立ちつくし、白っぽい灰が、煙突から吹き込む風に、落ち着きなく揺さぶられるさまを見つめた。 それから広間の別の場所へ行き、新しく取りつけた電灯のスイッチを一つずつ入れ、壁に掛かっているくすんだ油絵を照らし出した。 今はなきドミニー家の祖先の顔を見ながら、その生涯について耳にしたことを思い出そうとした。 いちばん長く眺めていたのはスチュアート朝時代のしゃれ男の肖像画で、その悪行の数々は、当時の恋愛事件について書き残している人々に格好の材料を与えたのだった。 眠そうな召使いが後ろをうろついていたので、とうとう階段を登らざるを得なかったが、それでもちょっとのあいだ廊下をぶらついた。 寝室のドアの取っ手を回したときも、指はいやいや動いているようだった。 なかに人がいるのに気がついて、彼の心臓は飛びあがった。 つかの間、入り口に立ちつくし、それから自分の馬鹿げた想像をふっとあざ笑った。 召使いが主人の帰りを辛抱強く待っていただけだった。

 「もう寝たまえ、ディケンズ。 今晩はもう用はないよ。 明日の朝は狩りに行く」

 召使いは黙って去り、ドミニーは床に就く用意をはじめた。 しかし寝る気にならず、シャツとズボンをはいたまま、部屋着をまとい、読書灯を脇に引き寄せると、本を手にして安楽椅子に沈みこんだ。 しばらくのあいだ本がさかさまであることに気がつかなかった。 持ち直しても文字は彼に何の意味も伝えはしなかった。 そのあいだ、女性の顔の不思議な行列がずっと目の前を通り過ぎていった。 どこか浮ついた、骨の髄まで感傷的な女友達キャロライン。 肉感的な身体と情熱的に光る目を持つステファニー。 そしてこの二人の女性のイメージを頭と記憶のなかから完全に消してしまうロザモンド。 その真剣な面立ちからはありとあらゆる人生の喜びが輝き出している。 彼女はこの前、彼に近づいてきたときと同じように、おののく唇に言葉にならない微かな叫びをのせ、やわらかな瞳には忘れることができない哀訴の表情を浮かべていた。 他の記憶は、初めから存在しなかったかのように、ことごとくかすんでしまった。 アフリカでの鬱々とした追放の歳月も、危険な人生に伴う日々の緊張も、すっかり忘れさられた。 彼は思いも寄らぬ天佑の訪れをしきりに待ち望んでいた。 誇りにしていた己の力よりもずっと強い無力感が、蜘蛛の巣のように彼を絡め取るのを感じていた。 そのとき、突然、恐れていた狂気が本当に彼を襲ってきたのかと思った。 それは彼がもっとも望み、もっとも恐れていたものだった。 小さなかちりという音が聞こえ、二つの白い手が羽目板を後ろに開いた。 ロザモンドがそこに立っていた。 彼女は神秘的な、不思議な光をたたえた眼で彼を見た。 唇は感じのよい微笑みに軽く開かれていた。 そこには子供のような、いたずらな微笑みが一抹含まれている。 彼女は後ろを振り返って羽目板を閉めると、指を一本あげ彼に近づいてきた。

 「眠れないの。 ちょっとだけお邪魔してもいいかしら」彼女は小声で言った。

 「もちろんさ。 ほら、座ったらいい」

 彼女は安楽椅子のなかで丸くなった。

 「ちょっとだけでいいの」彼女は満足そうにつぶやいた。 「あなた、手を出して。 まあ、冷たい!あなたも火のそばに来なくちゃだめよ」

 彼は彼女の椅子の肘掛けに腰をおろし、彼女は両手で彼の頭を撫でた。

 「羽目板から出てきたのを見て怖くなかった?」

 「君に何をされようと怖くない」

 「あの馬鹿げた気持ちは本当になくなってしまったの」彼女は熱心に話をつづけた。 「ロジャーに何があったにしろ、今は彼を殺したのはあなたじゃないと思っている。 今晩、幽霊の呼び声が聞こえても、わたし、怖くないわ。 どうしてあなたを傷つけようと思ったのかしら、エヴェラード。 ずっとあなたを愛していたのに」

 彼の腕がそっと彼女を包んだ。 彼女はその抱擁にためらうことなく反応した。 彼女は頬を相手の肩にのせ、彼は毛裏の白い部屋着を通して彼女の腕の暖かさを感じた。

 「じゃあ、どうしてわたしが君の夫じゃないと思うんだい?」彼の声はしわがれていた。

 彼女はため息をついた。

 「ああ、だって、違うんですもの。 こんなふうに思っているのは悪いことかしら。 あなたは夫にとても似ているけど、全然彼らしくないわ。 夫は死んだの。 アフリカで死んだの。 そんなことを知っているなんて変でしょう?でも知っているのよ!」

 「しかし、そうだとすると、わたしは誰なんだろう?」

 彼女は哀れむように彼を見た。

 「分からない。 でもあなたはわたしに優しくしてくれる。 あなたがそばにいると思うと幸せなの。 療養所がいやになったのは、あなたに会いたかったからよ。 つまりあなたが大好きっていうことなのね、きっと」

 「ここにわたしと二人きりでいるのは怖くないかい?」

 彼女はもう一方の腕を彼の首に回し、顔を引き寄せた。

 「怖くない。 わたしは幸せなの。 でも、あなた、どうしたの?さっきは冷たかったのに、今は額に汗をかいて、手が燃えるみたい。 わたしがここにいるのは嫌なの?」

 彼女の唇が彼を求めていた。 彼の唇は一瞬だけそこに触れ、それから彼女の両頬にキスをした。 彼女は少し顔をしかめた。

 「あなたは本気でわたしのことが好きじゃないのね」

 「わたしが本物のエヴェラード、君の夫だと信じられないのかい?わたしを見てごらん。 以前わたしを愛していたことを覚えてないかい?」

 彼女は悲しげに頭を振った。

 「いいえ、あなたはエヴェラードじゃないわ」彼女はため息をついた。 そして目を輝かせてこうつけ加えた。 「でもね、あなたは愛と幸せと人生をわたしに持ってきてくれた。 それに――」

 その直前まで、ドミニーは拷問のような彼女の甘くしつこい要求から逃れられるなら、地震でも落雷でも足下の床の崩壊でも心から歓迎したい気分だった。 しかし実際に妨害にやってきたのはかつて経験したこともないような恐ろしいものだった。 彼女は半ば彼の腕に抱かれて頭をそらしたまま聞き耳を立てていた。 彼も恐怖のあまり一瞬身体が震えたくらいだった。 彼らは夜の静けさを破るあのすさまじい叫び声、獣の口に閉じこめられた、苦しみあえぐ魂の叫び声を聞いたのだ。 彼らはそのこだまが絶え果てるまで一緒に耳を澄ませていた。 それから恐らくもっとも驚くべきことが起きたのだった。 彼女は少しも慌てず、怖がることもなくゆっくりと頷いたのである。

 「ほら、帰らなければならないわ。 ここに居させたくないのよ。 あなたのことをエヴェラードだと思っているに違いないわ。 そうじゃないって知っているのはわたしだけなの」

 彼女は椅子から滑り降りると、彼にキスをし、しっかりした足取りで床を歩き、バネに手を触れて、羽目板を抜けた。 そんなときですら彼女は振り返って小さく手を振り別れを告げた。 彼女の顔には恐怖を示すものは何もなかった。 ただ無言の失望が微かにあるだけだった。 羽目板は滑るように元に戻り、彼女の姿を見えなくした。 ドミニーは気が狂ったように頭を抱えた。

第十九章

 東の空には依然として黒っぽい灰色の雪雲が低く垂れこめていた。 そこに一条のか細い紅色の線が走り、朝の訪れを告げた。 風は止み、幽霊でも出そうな気配が静かに薄明のなかに漂っていた。 ドミニーは屋敷の裏から外に出て、まだ誰も踏んでいない雪の道をロザモンドの窓の下へと進んでいった。 そこに立った彼の唇から小さな驚きの声が漏れた。 テラスから踏み段を降り、庭園を抜けてまっすぐブラック・ウッドへ向う足跡がくっきりと残されていたのである。 あの叫び声は空耳ではなかった。 人間か何かが夜中にブラック・ウッドから出てきて、ここへまたやってきたのである。

 ドミニーはこの発見に異常なくらい興奮し、足跡を熱心に調べ、ついで森の端までそれを追った。 ところどころで彼は首をひねった。 足跡は人間のものでも、人間が知るどのような動物のものでもなかった。 それは森の端の巨大な茨の茂みのなかに消えているようだった。 茨にかかっている雪が所々こぼれ落ちていた。 小径があるようには見えない。 かつてはあったのかもしれないが、長年ほったらかしにされ跡形もなく消えていた。 羊歯、茨、灌木、藪が乱雑に育っていたのだが、それらがこんぐらがっていっそう密な下生えを形成していたのである。 木はまだたくさん生えていたが、多くのものが風に倒され、朽ちるがままに放置されていた。 あたりは沈黙が支配し、聞こえるのは垂れさがった葉からゆっくりと落ちる雪の音だけ。 慎重にもう一歩足を踏み出すと、地面が柔らかく沈みこむのが感じられた。 足の下から雪を通して真っ黒い泥がしみ出してきた。 泥に埋まってしまう前に、彼はかろうじて足を引き抜いた。 細心の注意を払い、歩くところを選びながら、彼は時間をかけて森の外周を調べはじめた。

 一時間ほどのち、管理人見習いのヘッグスは、もう一度銃架を確かめ、空のケースをこつこつと叩いて、ミドルトンのほうを振り向いた。 彼は暖炉の前の椅子に座って、パイプをくゆらしていた。

 「旦那様の二番の銃が見つかりません、ミスタ・ミドルトン。 なくなってます」

 「もう一度見てごらん」年老いた管理人はパイプを口から離して言った。 「旦那様は昨日、あの銃をお使いだった。 銃架の隅っこにばらばらに置いてあるやつを調べてみろ。 どこかにあるはずだ」

 「それがないんですよ」若者は譲らなかった。

 急にドアが開いて、ドミニーがなくなった銃を抱えて入ってきた。 ミドルトンはすぐさま立ちあがって、パイプを置いた。 驚きのあまりすぐには口がきけなかった。

 「ちょっと一緒に来てくれ」主人が命令した。

 管理人は帽子と杖を取りあげ、あとに従った。 ドミニーは足跡の行き着く先、ロザモンドの窓の外の砂利道まで彼を連れて行くと、ブラック・ウッドの方を指さした。

 「これをどう思う?」

 ミドルトンは躊躇しなかった。 彼は重々しく首を振った。

 「昨日の晩、何かお聞きになりましたか?」

 「この窓の下で地獄のような叫び声がした」

 「そりゃ、ロジャー・アンサンクの亡霊ですよ。 間違いない」ミドルトンは身震いした。 「森から出てくると、呼びかけるんで」

 「亡霊はあんな跡を残さないよ」

 ミドルトンは考えこんだ。

 「地元の人の話なんですがね、ロジャー・アンサンクの亡霊は何かでっかい動物に取り憑いていて、餌をもらうためにときどきここにやって来るんだそうです」

 「誰から餌をもらうんだね?」ドミニーは辛抱強く尋ねた。

 「そりゃミセス・アンサンクでさあ」

 「ミセス・アンサンクはもう何ヶ月もこの屋敷にいない。 彼女が出て行ってから昨日の晩まで、わたしの知る限り、この幽霊だか獣だかの声は一度も聞いたことがなかった」

 「確かにおかしなことです」

 ドミニーは森のほうまで目で足跡を追い、また逆にたどり直した。

 「ミドルトン、亡霊のことがだんだん分かってきたよ。 やつらは足跡を残すだけでなく、餌も必要なんだな。 そういうことなら、弾丸を食らわすこともできるかもしれない」

 老人はじわじわとこみあげてくる恐怖にしばらく凍りついたようになっていた。

 「あいつを撃ったりなさらないでしょうな、旦那様」

 「今朝もチャンスさえあれば、そうしていただろうよ。 天気がもう少しからっとしてきたら、森のなかに入ってみるよ、ミドルトン。 銃を持ってね」

 「そんなことをなさったら、絶対に戻ってこられなくなりますよ、旦那様!」彼は真顔で答えた。

 「やってみるさ。 アフリカでは怪しげな場所も藪をたたき切りながら進んだんだ」

 「こんな森は世界中どこにもありゃしません」老人はしつこく食いさがった。 「下は隅から隅まで腐っています。 上はどこもかしこも毒を放っています。 鳥は木の上で死ぬし、トカゲや気味の悪い生き物がうじゃうじゃはっているんです。 五十センチもある緑や紫のきのこが生えていて、においを嗅いだだけで毒にあたるんです。 森に入るなんて墓に入るようなものです」

 「それでも早急に解明してやるよ、この夜の訪問者の謎は」ドミニーは強い口調で言った。

 彼らは並んで屋敷に戻った。 なかに入る直前にドミニーは同伴者のほうに向き直った。

 「ミドルトン、君は今でも昔みたいにときどきドミニーズ・アームズに行って軽く一杯やるのかい?」

 「ほとんど毎晩ですよ、旦那様。 八時から九時のあいだです。 わたしは規則正しい人間なんで。 一日の仕事をつつがなく終えたあとは、人間誰しものんびりする権利がありますからな」

 「そうだね、ジョン。 今度あそこに行ったら、わたしが森を探索する予定だと話しておいてくれ。 噂を広めてほしいんだ。 いいかい?」

 「連中、度肝を抜かれますよ」賛成しかねるといった返事だった。 「でも伝えておきますよ、旦那様。 きっとえらい評判になるでしょう」

 ドミニーは銃を渡して部屋に帰った。 風呂に入って着替えたあと、朝食を食べに下に降りた。 彼が入っていくと、急に話し声が途絶えた。 それはドミニーも覚悟していたことだった。 全員がその日の狩りの見こみについて話しはじめた。 ドミニーはサイドボードから食べ物をよそうと、テーブルに座った。

 「最新式の幽霊に眠りを妨げられた人はいないでしょうね」

 「どうやら全員が同じものを聞いたようですよ」閣僚が好奇心もあらわに言った。 「身の毛もよだつ、この世のものとは思えない叫び声でした。 最近、心霊協会というやつに片っ端から入りまくりましてね。 面白い研究ですな」

 ドミニーはコーヒーを淹れながら言った。 「調査をなさりたいなら、拳銃持参で一晩一緒にあたりをうろつきましょう。 わたしがイートンに入学する以前の子供の頃から、アフリカに行く頃までは、とても上品で品行方正な幽霊がいたもので、それが家門の誇りでもあり、自慢の種でもあったんですがね。 しかしこの最新型のお化けは常軌を逸している」

 「いわれでもあるのですか?」ミスタ・ワトソンが心をひかれて尋ねた。

 「あれは以前この辺に住んでいた教師の霊で、彼が命を失ったのは、どうもわたしの責任ということになっているらしいのです。 そんなお化けはわたしたち一族にとって誉れにも慰めにもなりません」

 主人があまりにも素っ気なく喋るものだから、誰もがこの魅力に満ちた話題から奇妙なくらい離れる気になれなかった。 しかしそれとなくその話に触れようとしたのはターニロフただ一人だった。

 「森で狩り出しをやるのはどうだろう」

 「森の様子はそこに住んでいる幽霊よりも興味深いんじゃないかと思いますね。 昨日、勢子たちが、森のなかに入ると聞いただけで震えあがったのを覚えているでしょう?代々あそこは不浄の地とされてきたんです。 確かに非常に危険な場所です。 今朝、森の外側で膝まで埋まってしまったんですよ。 十時半に銃器室に集合しましょう」

 シーマンは主人のあとを追って部屋を出た。

 「君、地元の些細な問題にあまり首を突っこんではいけないよ。 もちろん今はのんびり過ごしてもいいんだが。 しかしね、君は王女のことを考えてやらないとならない。 結局のところ、われわれは彼女のご機嫌を損ねるわけにいかないんだ。 ダウニング街にちょっとでも噂が流れてみろ、たちどころにおじゃんだ!」

 ドミニーは親友の腕を取った。

 「いいかい、シーマン、王女のことを考えろと言うのは簡単だよ。 しかしこれ以上どうやって彼女に状況を分からせたらいいんだい?ドミニー夫人とは最善の関係を保たなければならないし、王女と人目につくような真似は決してできない」

 「君とドミニー夫人の関係なんか、誰にとっても大したことじゃないのじゃないかな。 王女は衝動的で情熱的な人間だが、同時に社会的な名声もあり、外交手腕もある。 密かにロンドンで彼女と結婚しても問題はないと思う。 まずはエヴェラード・ドミニーの名前で式を挙げておいて、あとで本名で式を挙げ直すのさ」

 彼らは立ち止まって煙草に手を伸ばした。 煙草は広間の丸テーブルの上に葉巻の小箱と並べて置かれていた。 ドミニーは少し間をおいてから返事をした。

 「王女が君にそうしたいと言ったのか?」

 「そんなところだ」とシーマンは認めた。 「もっとも彼女は君のほうからそういう提案を出してほしかったらしい」

 「で、君はどうしたらいいと言うのだ?」

 シーマンは軽く煙を吐き出した。

 「君、わたしは王女のことが少々心配なんだ。 君が彼女をどう思っているか、そんなことは訊かないよ。 名誉を重んじる男として、君が遅かれ早かれ彼女に結婚を申しこむのは義務であると考えている。 それで彼女が落ち着くというのなら、結婚を数ヶ月早めてもかまわないと思う。 ターニロフが大使館で手はずと整えてくれるだろう。 彼は王女のためなら何でもするし、そうすることで君と彼の関係も強化できる」

 ドミニーは階段のほうに向きを変えた。

 「出発の前にもう一度話し合おう」彼は憂鬱そうだった。

 ドミニーは召使いによってただちに妻の居室に通された。 ロザモンドは灰色の毛皮で裏打ちされた、薄い青の愛らしいモーニング・ローブをまとい、ちょうど朝食を終えたところだった。 彼女は嬉しそうに小さく歓迎の声をあげると両腕を彼に差し出した。

 「来てくれてうれしいわ、エヴェラード!お出かけになる前にちょっと会いたかったの」

 彼は彼女の指を唇まで持ちあげ、隣に座った。 彼女は彼がいることに有頂天になっているようで、昨晩の出来事などなんとも思っていないことが直感的に分かった。

 「よく眠れたかい?」

 「ぐっすり寝たわ」

 彼は勇気を出してその話題を取りあげた。 どんな時でもひるむまいと決心していたのだ。

 「じゃあ、夜の訪問者のことを考えて眠れなくなることはないんだね?」

 「全然」彼女はさりげなく話しつづけた。 「あなたが本当にエヴェラードだったら、わたし、震えていたわ。 だってエヴェラードが帰ってきたら、ロジャー・アンサンクの霊が彼に悪さをするでしょうから」

 「どうして?」

 「もちろんあなたは知らないわね。 ロジャー・アンサンクはわたしに恋をしていたの。 もっともエヴェラードと結婚する前、彼とは一言も口をきいたことがなかったけど。 そこまでは昨日話したわよね?わたしが結婚すると、あの人、可哀想に気が狂いそうになったわ。 仕事を辞めて、ここの庭園をうろつくようになった。 ある晩、エヴェラードが彼をつかまえて、喧嘩になったの。 それから二度とロジャー・アンサンクを見た人はいないわ。 近所の人なら誰でも話してくれるでしょうけど」彼女は少しだけ声を落としてつづけた。 「エヴェラードはロジャーを殺してブラック・ウッドの近くの沼に捨てたのよ。 死体は沈んで、もう絶対見つからないわ」

 「まさかそんなことはしないだろうと思うよ」

 「あら、どうかしら。 エヴェラードってひどい癇癪持ちだったの。 あの晩、家に帰ってきたときは血まみれだった。 怖かったわ。 わたしが病気になったのはあの晩からなの」

 「辛い昔の話はもう止めよう。 わたしたちのお客さんのことを忘れないようにと思って来たんだよ。 いつ下で顔合わせしようか」

 彼女は子供のように笑った。

 「あなた今、『わたしたちの』って言ったわね。 まるで本当の夫みたい」

 「そんなこと、他の人に言ってはいけないよ」

 彼女はすぐに同意した。

 「分かっているわ。 ちゃんと、ちゃんと気をつける。 エヴェラード、あなたのお客さんはとっても頭がいい人たちね。 わたしのエヴェラードのお客さんとは大違い。 長いこと世間づきあいがなかったからお客さんとお話しできるか心配だわ。 看護婦のアリスがお客さんのこと、しきりに感心していたのよ。 わたし、テーブルの端に座るのが怖い。 キャロラインは女主人役をはずされるのを嫌がるでしょうし。 わたし、お茶の時間と晩餐後に降りていくわ。 そしてだんだん慣れていく。 まだ病気なんだって、簡単に言い訳できるでしょう。 もちろん病気なんかとっくに治っているけど」

 「君の好きなようにしていいんだよ」出ていきながら、彼はそう言った。

 その日の午後、いささか疲れを見せながらも、運動と狩りの楽しさに顔を紅潮させて、狩猟隊がどやどやと広間に入ってきたとき、部屋の片隅、お茶が用意された大きな丸テーブルの後ろに、どちらかというと青白い顔色の、ひどく子供っぽい可憐な女性が、保護と同情を求めるような、愛らしい、大きな目を向けて、おどおどと立ちあがるのを見たのだった。 ドミニーはすぐに彼女の横に行った。 彼が紹介をはじめるや全員が周りに集まってきた。 彼女は口数こそひどく少なかったものの、その言葉は素晴らしく自然で優雅だった。

 彼女はキャロラインに言った。 「夫のおもてなしをお手伝いいただいて感謝しています。 だいぶ良くなったのですが、病気の期間が長すぎて、いろいろなことを忘れてしまい、女主人としてはあまりお役に立てないだろうと思います。 でも皆さんにお茶を淹れさせてくださいね。 キジを何羽撃ち落としたのかもお聞きしたいわ」

 ターニロフは彼女の横の長椅子に腰掛けた。

 「このややこしい作業はわたしがお手伝いしましょう。 この角砂糖ばさみはお一人で持つには重すぎますからね」

 彼女は陽気な笑い声をあげた。

 「でも本当は、わたし、ちっとも身体は弱ってないんですよ。 とても重い患いでしたけど、今はまた丈夫になりましたから」

 「それじゃあ、ここに座る理由を別に考えないと。 ご主人が撃ち落としたキジのことや、他の人がみんな当て損なったのに、ご主人だけしとめることができたヤマシギのことをお話しましょう」

 「それは楽しみ。 お砂糖はいくつ入れます?ホット・マフィンを王女様にさしあげてくださいな。 それからそのベルを鳴らしてください。 お湯がもっといりますね。 みなさん、とっても喉が渇いているでしょう。 お会いできてよかったわ」

第二十章

 ターニロフ王子と主人は腕を取り合って長々と続く樅の木立の裏の、雪に覆われた斜面を登っていった。 二人がめざしていたのは小さな旗つきの棒だった。 そこが彼らの立ち位置なのである。 見渡す限り人影はなかった。 他の撃ち手たちは傾斜のきつい、けれども回り道をしないですむ道筋を辿ることにしたのだ。

 「フォン・ラガシュタイン、勝手だが名前で呼ばせていただく。 知っていると思うが、わたしには一つ弱点がある。 若かった頃は、そのせいで外交官を首になりそうになった。 わたしはスパイというものがとにかく嫌いなのだ。 それが必要な場合でもね。 わたしには君の役割が滑稽に思える。 ポツダムには個人的に電報を送って、その旨を伝えておいた」

 「今までのところ、たいした働きもありませんが」

 「いいかね、たいした働きがないというのは、正当化しうるような仕事がないからだよ。 これからもそんなものはありはしない。 あなたのここでの仕事には何のメリットもない。 本当の名前や役割がばれてごらん。 イギリス政府に恐ろしく悪い印象を与えるんだよ」

 「わたしは盲目的に祖国に従うしもべです。 どうかそのことを忘れないでください。 命令に従っているだけなのです」

 「それはたしかに認めるがね。 しかし話をつづけよう。 わたしがこの国に着任してからもうすぐ一年が経つ。 それなりに成果をあげてきたと自負している。 わたしが関係してきた閣僚メンバーからは、両国の相互理解をいっそう深めるよう、努力を促す声しか聞こえてこない」

 「確かに今のところ万事順調にすすんでいます」ドミニーが同意した。

 「ダウニング街にはドイツとの平和な関係を望む真摯な、根強い願望があると確信している。 いつ議論しても、いつ譲歩を求めても、両国の友情を育みたいという心からの願いに出会うのだ。 わたしは自分の仕事に誇りを感じている、フォン・ラガシュタイン。 ボーア戦争の頃から比べると、ドイツとイギリスはずっと近しい間柄になったと思う」

 「大使の個人的な人気と国民感情を混同なさってはいませんか?」

 「その点は確信がある」大使は重々しく言った。 「わたしがこの国で人気を得たのは、現在の世界政治をもっと健全なものにしたいという気持ちがあるからだよ。 いま大いに楽しみながら自分の仕事の成果を回顧録に跡づけているところだ。 いつか両国のあいだに平和がしっかりと築かれたとき、出版しようと思っている。 そのなかに現政権が真剣に平和を望んでいる証拠を、知り得た範囲で挙げておいた」

 「内々にその回顧録を読ませていただけるなら大変嬉しいのですが」

 「いいだろう」彼は愛想よく返事した。 「とりあえずあなたにはこちらでのご自分の役割を考え直していただきたい」

 「わたしの役割は自発的なものではありません。 命令に従って行動しているのです」

 「その通りだ。 しかし過去半年のあいだに情勢は大きく変わった。 フランスの不興を買うことを承知で、イギリスはわが国のモロッコに対する要求に素晴らしく柔軟な姿勢を示している。 重要課題を巡って両国が衝突する可能性は今やなにひとつ無くなったのだ」

 ドミニーは考えこみながら言った。 「戦争を仕掛けたいという欲求がダウニング街にではなくて、ポツダムのほうにあるとしたら話は別でしょう」

 ターニロフは厳しく言い切った。 「われわれがいただく主人は高潔なお方だ。 わたしはその御本人から直接お気持ちをたまわったのだ。 皇帝は平和と大いなる繁栄を望んでおられる。 わが国はとっくにそれを享受する資格がある。 産業も商業も国民性も才能も秀でているのだから。 そしてそういうものがドイツを世界最大の大国にする武器なのだ。 武器をふるうだけで不滅の栄光にたどり着いた帝国など、いまだかつて存在しない。 撃ち場に着いたようだな。 この狩り立てが終わったらわたしのところに来てくれ。 今言ったことはほんの前口上に過ぎないのだ」

 空気は乾燥しはじめ、雪は粉雪になった。 女性たちの小隊は勢子が森を抜ける前に撃ち場に着いた。 キャロラインとステファニーはどちらもドミニーの隣に並んだ。 しかしキャロラインは数分後、ターニロフが銃を構えているところへ行ってしまった。 ステファニーとドミニーは図書館での波乱に満ちた対面以来、初めて二人きりになった。

 「モーリスがあなたに話しかけてきた?」やや唐突に彼女は尋ねた。

 「実を言うと、大使と非常に興味深い話をしている最中なんです」

 「わたしのことはしゃべったかしら?」

 「お名前はまだ出てきていませんね」

 彼女はちょっと顔をしかめた。 豪華な毛皮にロシア風のターバン・ハットをかぶった姿は雪を背景にくっきりと際立っていた。

 「わたしの名前が出てこないのに興味深い会話とはね!」彼女は皮肉をこめて相手の言葉をくり返した。

 「もうすぐあなたのことが話題になると思います。 大使は、今までの話は前口上に過ぎない、もっと重要な用件があるとおっしゃいましたから」

 ステファニーは笑った。

 「モーリスは本当に遠回しね。 最初にきっとお小言があるわよ、あなたのひどい仕打ちのことで」

 猟がはじまったため会話はしばらく中断した。 ドミニーは忠実なミドルトンをそばに呼んで弾薬の補給を頼んだ。 ステファニーは勢子たちが森から出てくるまで待った。

 「あなたの仕打ちは、ひどいなんて生やさしいものじゃないわ。 レオポルド、はっきり言えば、わたしの心をずたずたにしたのよ。 誇りさえ傷つけた」

 「女性としての観点からしか物事を見ないからですよ」

 彼女は声を低くした。 「あなたはどうなの。 昔は誰よりも優しくて情熱的だった人が、今は政治という観点からしか物事を見ないじゃない。 お国のことをたいそう大事になさっているわね、レオポルド。 わたしのことなんかどうでもよくなった?」

 「エヴェラード・ドミニーにとってはどうでもいいことです。 時が至れば、レオポルド・フォン・ラガシュタインは、彼が権利を持つすべてのものを手に入れることができるでしょう。 信じてください。 冷たくされたとか決断が遅いといって不平を鳴らす必要はまったくありません。 彼はただ一つのことを考え、ただ一つのことを望んでいるのです。 それはこの離別の苦しい歳月にできるだけ早く決着をつけることです」

 彼女の顔から強ばった表情がなくなり、話し方がずっと自然になった。

 「あなた、待つ必要はないのよ。 皇帝がお許しになったのですもの。 あなたの政治的指導者はそれを支持するどころか、それ以上の気持ちをお持ちなのよ」

 「わたしは危険にさらされています。 わたしには何がいちばん安全で賢明であるか、分かっています。 二つの男性の役を同時に平然とこなすなど、とてもできやしない。 しかし王子はまだ何もおっしゃっていません。 まずは王子のお話をうけたまわりましょう」

 ステファニーはやや横柄に顔を背けた。

 「わたしに哀願させようという気なの!今晩、お互いをしっかり理解する必要があるようね」

 小隊は全員そろって別の鳥の隠れ場所に向かった。 ロザモンドが一行に加わり、嬉しそうにドミニーの腕にしがみついた。 庭園を急ぎ足で歩いてきたので頬が紅潮していた。 彼女の歩き方には健康な女が持つ自由な、力強い美しさがあった。 ややあって彼女がそばを離れターニロフのそばへ行こうとしたとき、ドミニーは複雑な思いに震えながら彼女を見ている自分に気がついた。 ふと誰かが彼の腕を触った。 狩猟隊の一人と一緒にそばを通りかかったステファニーが立ち止まって彼の耳にささやいた。

 「演技しすぎると、もっと大きな危険に見舞われるかもしれないわよ。 用心深いあなたでさえうっかり見逃してしまうような危険に!」

 ドミニーは次の撃ち場に行く途中でキャロラインに捕まった。 彼女は狩猟ステッキをつきながら彼のそばを離れず、容赦なく非難を浴びせはじめた。

 「ねえ、エヴェラード、放蕩者が悔い改めた例としてあなたはわたしが知る最高の例のひとつだわ!立派な社会的地位まで手に入れて。 お願いだから、わたしたちみんなを失望させないでちょうだい!」

 「どうもわたしは失望させるのが得意のようですね」ドミニーはやや憂鬱そうに言った。

 「ねえ、あなたは他人の言いなりになることはないのよ。 分かりやすく言えばね、ステファニーといっしょになって馬鹿な真似はしないでほしいの」

 「そんなことしようなんてちっとも思っていませんよ」

 「でも、彼女はその気よ!わたしの言うことをよくお聞き、エヴェラード。 あの女のことは、わたし、ちゃんと分かっている。 彼女は利口だし、素敵だし、いろいろ美点はあるでしょうけどね、どういうわけかあなたにご執心よ。 可愛いロザモンドを、まるで生きている権利がないみたいににらんでいるのよ。 あなた、被害者みたいな顔をしないで。 きっとあなたが彼女をつけあがらせたに違いないわ」

 ドミニーは黙っていた。 幸いなことに、次の数分間は忙しさのあまり口をきく暇がなかった。 従姉妹は辛抱強く射撃が止むのを待った。

 「さあ、どういう言い訳をするのか、聞かせてもらいましょうか。 わたしの見るところ、あなたは奥さんにとっても優しくしているし、彼女もあなたを慕っている。 王女と浮気したいのなら、ここではじめるのはまずいわ。 彼女にやきもちを焼かせたら、また病気がぶり返すわよ」

 「ねえ、キャロライン、ステファニーとは何もないんですよ。 安心してください」

 「彼女が一方的にのぼせているってこと?」

 「彼女の態度を大げさに取りすぎてますよ。 かりにあなたが正しいとしても――」

 「あら、むきになって反論することはないわ!」と彼女は彼をさえぎった。 「あなたが彼女をたきつけたんだと言ってるわけじゃないの。 そんなことはしないと信じているわ。 わたしが言いたいのは、奥さんは全快まであとほんのすこしなんだから、よほど注意を払って行動しなさいってこと。 ステファニーと睦言をささやきたいなら、ここじゃなくてベルグレイブ・スクエアでおやんなさい」

 ドミニーはキジが旋回しながら落ちてくるのを見ていた。 彼の左手がキャロラインの持つ弾薬袋に伸びた。 弾薬を取る前に、彼は彼女の指をふとつかんだ。

 「あなたはいい人ですね。 わたしは何があろうと、ロザモンドを傷つけるようなことはしませんよ」

 「昔の癖が抜けなくて浮気せずにいられないのなら、いつでもわたしがそばにいます。 ロザモンドはわたしなら気にしない。 薄茶の髪には白いものがちらほら混じってるんですもの。 あら庭園の向こうから執事が来る。 伝言でもあるんじゃないの。 料理人さえ無事なら、わたし、どんな悪い知らせだって平気だけど」

 ドミニーは憂い顔の執事が雪をかき分け近づいてくるのをじっと見つめていた。 パーキンスは外を歩くような格好ではなかったし、少しもそれを楽しんでいる様子はなかった。 義務を果たすために黙々と進んでくるのだが、奇妙なことにその姿を目にした瞬間から、ドミニーは彼がなんとなく運命の使者であるように感じられた。 しかし彼が主人のそばにようやくたどり着いて伝えた内容は少しも警戒心を抱かせるようなものではなかった。

 「旦那様、ノリッジからミラーというお客様がいらっしゃってます。 外国の方で、最近この国に渡ってこられたようです。 おっしゃることが分かりにくかったのですが、王女様の女中がドイツ語で話をしてくれました。 どうやら旦那様がアフリカでお知り合いになったドクター・シュミットでいらっしゃるか、あるいはドクター・シュミットから言づけを預かってきた方のようです」

 そのとき笛が吹き鳴らされ、ドミニーはくるりと振りむいて銃を構えた。 その振る舞いに不自然なところは全くなかった。 頭上を飛ぶ雌キジを一羽見逃して、射程距離ぎりぎりのヤマシギを撃ち落とした。 パーキンスのほうを振り返る前に、彼は弾をこめ直した。

 「その方は急いでいるのかな」

 「いいえ。 旦那様は三時か四時にお帰りになると申しあげましたところ、待つのは全然かまわないとおっしゃいました」

 ドミニーは頷いた。

 「それじゃ、君がもてなしてさしあげたまえ、パーキンス。 今日は帰りが遅くならないだろう。 たぶんミスタ・シーマンに戻ってもらって話をしてもらうことになる」

 執事はうやうやしく帽子を持ちあげて、屋敷の方へ戻っていった。 キャロラインは不思議そうに彼を見ていた。

 「アフリカのお友達がよくここに来るの、エヴェラード?」

 銃身を覗きこみながらドミニーは答えた。 「シーマンは一緒に船で帰国したからちょっと違いますが、彼を除けばあの幸運の地から訪問者があったのはこれが初めてですよ。 でも、そのうちわんさか来るでしょう。 植民地にいた人間はおそろしく結束が固いから」

第二十一章

 ミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーは見たところすこしも警戒心を抱かせるような人物ではなかった。 彼は執事の私用の居間で丁重きわまりないもてなしを受け、その歓待ぶりに充分満足しているようだった。 ドミニーが入り口にあらわれると、彼は立ちあがって不動の姿勢を取った。 軍人らしい挙措がいくつか眼についたが、それがなければ非常に社会的地位のある、隠退した商人としてどこでも通用しただろう。

 「あなたがサー・エヴェラード・ドミニーですか?」

 ドミニーは頷いた。 「そうです。 以前、お会いしたことがありますか?」

 男は首を横に振った。 「わたしはドクター・シュミットの従兄弟です。 あなたがお帰りになったあと、ローデシアから植民地に行ったのです」

 「先生はお元気ですか?」

 「従兄弟は相変わらず忙しいのですが、たいへん元気にやっております。 あなたによろしく伝えてくれとのことでした。 それからこの手紙も」

 男は多少気取った手つきで封筒を取り出した。 そこには

 英国ノーフォーク州ドミニー邸 サー・エヴェラード・ドミニー男爵様

とあった。

 ドミニーが封を切っているとき、シーマンが入ってきた。

 「東アフリカで知り合ったドクター・シュミットから伝言を持ってきてくれたんだ。 ミスタ・シーマンはわたしと一緒に南アフリカから帰国したのです」

 二人の男は互いの目をじっと見つめ合った。 ドミニーは興味をそそられ彼らを見ていた。 どちらもまったくの無表情で、まばたき一つしなかった。 しかしその瞬間、直感的に危機の到来を感じ取り、ドミニーの感覚は極限まで研ぎ澄まされた。 口にもそぶりにも出さなかったが、二人がお互いの正体を見て取ったことが分かった。 ありきたりの挨拶が取り交わされた。 ドミニーは数行からなる手紙を読み、ふと別の世界に連れ戻されたような気がした。

 親愛なる閣下

 慎んでご挨拶を申しあげます。 こちらのその後の様子につきましては、別途、お聞き及びになることもございましょう。

 閣下にはわたしの従兄弟で、この手紙の持参者であるミスタ・ルードヴィッヒ・ミラーをご紹介いたしたく存じます。 従兄弟は閣下にご承知置き願いたいある事情を説明することになっております。 従兄弟にはどのようなことでもお話しください。 あらゆる点で信頼のできる人物です。

          カール・シュミット(署名)

 「あなたの従兄弟はちょっと謎めいた言い方をしていますね」ドミニーは手紙をシーマンに渡した。 「それである事情というのは何のことですか?」

 ルードヴィッヒ・ミラーは小部屋を見回し、それからシーマンを見た。 ドミニーは彼の躊躇をわざと誤解した振りをした。

 「こちらの友人は何でも知っています。 わたしに対してと同じように話してください」

 男は物語を語るように話し出した。

 「わたしがこちらに来たのは、あなたに警告を与えるためです。 ブルー・リバーの川岸、ビッグ・ベンドであなたが殺したイギリス人が、アフリカの別の場所にいるという連絡がありました」

 ドミニーは信じられないといったふうに頭を振った。 「そんなことを伝えるために、わざわざここまでお出でになったんじゃないでしょうね。 あの男は死んでいますよ」

 「わたしの従兄弟もなかなか信じようとしませんでした。 あの男は命を奪うに充分な量のウイスキーを持っていました。 それを全部飲み乾すくらい喉はからからで、食料は何もありませんでしたから」

 「わたしが彼を見つけたとき、付き添いに見捨てられ、譫言を言っていた。 永遠に黙らせるのは赤子の首をひねるようなものだった」

 「ところがそれが未遂に終わっていたのです。 植民地の三つの場所から彼の消息が伝わってきました。 必死で海岸方面に向かっていたそうです」

 「自分の名を名乗っているのだろうか?」

 「いいえ。 しかし従兄弟からあなたに申しあげるよう念を押されたのですが、いずれにせよ、彼は本名を名乗ったりはしないでしょう。 彼の行動はまともではありません。 身体もひどく弱っています。 気が狂いかけているのは間違いありません。 それでも彼が植民地にいる、あるいは数ヶ月前にいたというのは事実です。 海岸まで達したら、いつ彼がここに来て、あなたを驚かすかも知れません。 わたしはあなたに必要な措置を取っていただき、彼があらわれても不利な立場に置かれないよう、警告を発するために送られてきたのです」

 「妙な知らせを持ってきたものだね、ミラー」シーマンが考えこむように言った。

 「この知らせにはドクター・シュミットもたいへん心配しています。 彼は現地人を一人ひとり詰問しました。 しかし彼らの話を覆すことはできませんでした」

 「その話が本当で、あの男がこの国に向かっているとすれば、いつここにあらわれるかも分からないということだね」とシーマンが言った。

 「わたしがここに来たのは、その可能性を警告するためです」

 「君自身は現状をどこまで把握しているんだ?」

 男は曖昧に頭を振った。

 「何も存じません。 わたしは数年前に東アフリカに行き、モザンビークでささやかな貿易業を営んできました。 将校、病院、狩猟家に備品類を提供しているのです。 ときどき仕入れのためにヨーロッパに戻らなければなりません。 ドクター・シュミットはそれを知っていて、船出する直前に会いに来たのです。 最初、彼は長い手紙を書くつもりだったようですが、気が変わったのでしょう。 わたしがお持ちしたほんの短い手紙を書いただけで、あとのことは口頭でわたしに伝えられたのです」

 「先生が話したことはみんな覚えていらっしいますか?」ドミニーが訊いた。

 「今申しあげたことがすべてです」一瞬の間をおいて、そういう答えが返ってきた。 「ドクター・シュミットはこの件を非常に気にかけています。 これに関連して、訳の分からない、謎めいたことが起きていますから」

 「それで君がここにあらわれたのか、ヨハン・ヴォルフ?」シーマンの口調が変わった。

 訪問者は目に微かな驚きを浮かべただけで、一切顔色を変えなかった。

 「ヨハン・ヴォルフですか」と彼は繰り返した。 「それはわたしの名前ではありません。 わたしはルードヴィッヒ・ミラーです。 この件に関しては、お話した以外のことは何も知りません。 わたしはただの伝令です」

 「ウィーンで一度、クラクフで二度会っている」シーマンはもの柔らかに、しかし執拗に彼に思い出させようとした。

 もう一人の男はゆっくりと頭を振った。 「人違いではありませんか。 何年も前に一度ウィーンに行ったことがありますが、クラクフには行ったことがありません」

 「君は誰と話をしているのか、分からないのかね?」

 「ヘア・シーマンというお名前でしたね」

 「とてもいい名前だよ」シーマンは嘲るように言った。 「これを見て考えてごらん」

 彼はコートとチョッキのボタンをはずし、セーム革の無地のベストを見せた。 その左側には文字と数字が記されたブロンズの飾りがついていた。 ミラーは無表情にそれを見つめ、頭を振った。

 「情報局、第十二執務室、合い言葉、時は迫れり」シーマンは声を落としてつづけた。

 相手は何を言われているのか理解できない子供のように薄笑いを浮かべて頭を振った。

 「こちらの紳士はわたしを他人と勘違いなさっていますね。 何のお話やらさっぱり分かりませんが」

 シーマンは腰をおろし、何も言わずに数分間、この頑固な訪問者をじろじろと見ていた。 両手の指を合わせ、眉間に軽くしわを寄せた。 差し向かいに立っていた男は身じろぎもせずこの注視に耐えていた。 冷静沈着、まさにドイツの典型的なブルジョア商人だった。

 「こちらに長くご滞在の予定ですか?」ドミニーが訊いた。

 「一日か二日、もしかすると一週間くらいは」彼は何気ない調子で答えた。 「ノリッジにおもちゃを製造している従兄弟がいます。 わたしはイギリスの田舎が好きなんですよ。 休暇はこちらで過ごそうと思っています」

 「ほほう」シーマンが辛辣な声を出した。 「雪の降り積もったイギリスの田舎が好きとはな!わたしにもう言うことはないのかね、ヨハン・ヴォルフ?」

 「男爵への用向きはお伝えしました」彼は申し訳なさそうに返事した。 「あなたの気分を害したことを残念に思います、ヘア・シーマン」

 シーマンは立ちあがった。 ドミニーはすでにドアの方を向いていた。

 「もちろんうちで一泊なさるでしょうね、ミスタ・ミラー。 ミスタ・シーマンは明日の朝、もう一度お話がしたいだろうと思うんですよ」

 「泊めていただければこんなにうれしいことはありません、男爵。 しかしながらお友達の興味をひくようなことは、もうこれ以上何もありません」

 「君は大きな間違いを犯しているぞ、ヴォルフ」シーマンが怒った。 「上司のわたしに対する君の態度は許し難い!」

 「人違いだとお分かりいただけさえすれば!」咎められた男は懇願するように言った。

 ドミニーと共に家の正面側に向かうあいだ、シーマンは険しい顔をしていた。 友人の問いに答える声も険しかった。

 「あの男と彼の訪問をどう思う?」

 「どういうことか分からんが、分かっていることもたくさんある。 あの男はスパイだ。 外務省の切り札ともいうべき男で重大な事件が起きたときにしか起用されない。 名前はヴォルフ、ヨハン・ヴォルフ」

 「じゃ、彼の話は?」

 「それは君が誰よりもいちばんよく判断できるはずだよ」

 「その通りだ。 わたしは間違いなくあの男の死体をブルー・リバーに投げこんだ。 そして沈んでいくのを見た」

 「つまり彼の話は嘘だってことだ。 事情は分からないが、われわれはわれわれ自身のスパイ組織から疑いをかけられてしまったんだ」

 広間に入ったとき、シーマンはアイダーシュトルム王女から緊急の呼び出しを受けた。 ドミニーはしばらく姿が見えなかったが、やがて濡れた狩猟服を脱いで戻ってきた。 彼のあとから召使いがやってきた。 銀の盆にメモを載せている。

 「ミスタ・パーキンスの部屋にいらっしゃるお客様から、ミスタ・シーマンに御伝言です」召使いは声をひそめていった。

 ドミニーは小さく頷いて盆からメモを取りあげた。 彼はお茶のテーブルから立ちあがろうとしている、客のなかでいちばん若くて、いちばんひょうきんな男のほうを振り向いた。

 「玉突きで勝負だ、エディ。 プールは得意中の得意なんだって?」

 「相当な腕ですよ、わたしは」若者は満足そうに笑った。 「スヌーカーで黒玉一個ハンディをあげましょう。 どうです?」

 ドミニーは彼の腕を取ってビリヤードルームに連れて行った。

 「ハンディはいらない。 用意したまえ。 わたしがヨハネスブルグで二ヶ月間、どうやって生計を立てていたか見せてやろう」